読書日々 825

◆170414 読書日々 825
沙翁『人肉質入裁判』
 昨13日、猛吹雪になった。20歳でとった運転免許(55年間世話になった)返上で新札幌の警察署へ向かう途中からちらつきはじめ、帰りは視界困難になるほどの雪となった。ま、この時期として珍しいことではないが。これで自走の手段を失った。片足がなくなった気分か!
 1 12日、書肆吉成に来て貰い、蔵書を99%(?)以上を処分することに決めた。吉成さんは、札幌大の出身で、山口ゼミで学んだ新進気鋭の古書屋だ。これで、20歳から少しづつ買ってきた書籍のほぼ全部が消えることになる。売籍は、本=半身で、半身を失うも同前、と思ってきたが、どうせもう半身以上は「死んでいる!」、あとはゆっくり自前で買った本とつきあおう、そう決めた。ただし、司馬さん、谷沢・渡部両先生の本は、例外として残しておきたい。といっても、わたしの本は、すべて使用、利用のために買ったので、見て、手に取って楽しむためのものは、ない。それでもアダム・スミス全集のように、全く手をつけずに書庫に埋まったままの本がある。その他多くも、ほとんどが同じ運命をたどった。
 渡部昇一先生は、75歳で、書庫を新築し、『渡部昇一 青春の読書』(WAC 2015)に、世界一といわれる蔵書の宝庫のほんの一部を開示した。目もくらむほどの豪華さだが、ま、一冊の本に退職金をはたくほどの剛毅さはわたしなどにはとてもない。
 2 ミステリの醍醐味の一つに、アリバイ崩しがある。鮎川哲也短編集『白昼の悪魔』(光文社文庫)は「本格ひとすじ」を自認する作者らしくというべきか、ぼけた頭にはとうてい太刀打ちできない。ただし、クリスティに「白昼の悪魔」があったように、アリバイとトリックは、ほんの髮一筋の差と思える。戦後ミステリ史の劈頭を飾る高木彬光『刺青殺人事件』(1947)のトリックには驚かされたが、その高木がのちに『邪馬台国の秘密』(1973)で、古代史家の古田武彦(『邪馬台国はなかった』)にプライオリティ侵害で訴えられ、改稿を余儀なくされた。ことほどさように新「ネタ」の発見は難しい。
 3 三上延『ビブリア古書堂の事件手帖』(メディアワークス文庫 2017.2.25)の最終7巻を期待した。たしかに面白い。が、作者の苦労は分かるものの、穏当なケースに落ち着いたように思える。ミステリの種明かしは、してはいけない約束だから、全く別種のことを一つだけいいたい。
 作者は、坪内逍遙訳のシェイクスピア全集にも目を通した、といっている。この逍遙、大知識人で、三宅雪嶺と愛知英学校の同期生、漱石や鴎外それに露伴とはまたひと味もふた味も異なる、一世代上(原敬など)の、偉才だ。「開国」前後に生まれたこの世代から上は、新渡戸稲造や岡倉天心たちを筆頭に、幼児から外国人に英語あるいは仏語教育で訓育された新日本人だ。極端にいえば、日本生まれで、居留地育ちだ。もう少し上の世代が、漢語訳で欧書を学んだのとはことなり、物心ついたときには、オリジナルで欧書を読んでいた連中だ。
 古書堂7の出だしに、ベニスの商人の邦訳『人肉質入裁判』(訳井上僅〈1850~1928〉 1883)が出てくる。この作品がシェイクスピア理解の鍵を握る、と作者三上も理解している。じつにその通りに思える。そうそう経済学の岩井克人(1947~)『ヴェニスの商人の資本論』(1985)は、資本主義の新定義を促すエッセイ集だが、労働価値・剰余価値説を否定し、価値は市場で「差異」から生まれるという、きわめて常識と習慣にもとづく説を打ち立てた。労働価値説などない時代、人類史が始まって以来、市場(交換)あるところ資本主義は厳然として存在してきた、ということを(どうも)経済学(数理)的に証明したらしい。この証明のところ(「不均衡動学理論」)はわたしには理解できないが。
 明治初期のわずか3代の世代間格差が、文化格差となっているのだ。漱石や露伴たちは、遅れた世代であった。こういう含蓄が三上本にちらりとでも見えていたら、ミステリの質が上がったりなんかして。ま、それはお遊びか? この遊びが大切だ。鮎川本にもない。