読書日々 635

◆130830 読書日々 635
中村久子さんのインタビュー記事、羨ましいほどにいいね
 三宅雪嶺の『人物論』(千倉書房)や『同時代史』(岩波書店)を読んでも、原敬の評価は高くない。原は明治維新の元老たちが山県有朋、西園寺公望を残して姿を消そうとしたときに政党=政友会と原嫌いの山県の首班指名を受けて組閣した人物である。「政党政治」で名高いが、欧州大戦の戦後処理という難問題を手がけた、いってみれば吉田茂の戦後処理を凌ぐ活躍をした宰相である。
 この原が大隈重信嫌いであった。「人事」の原といわれ、人間を懐柔するのに長けていた原だが、大隈だけは別だった。15歳で上京し、苦学の末23歳で念願のジャーナリストの口をえて水を得た魚の如く羽ばたいた原が、1882=明15年、政変で伊藤博文に追われて下野した大隈(=自由民権)派に新聞社を乗っ取られ、退社の憂き目に遭ったのがきっかけであった。井上馨に拾われ外務省に入り、大活躍して6年、パリ臨時大使になって仏語に磨きがかかったころ、大隈が外相になるに及んで帰国命令、外務省を追われて33歳、井上がいる農商務省に転じなければならなかった。陸奥宗光農商務相に見出され秘書課長、92年36歳、陸奥の辞職に同行する。陸奥が外相に転じると39歳で外務次官に抜擢されたが、翌96年9月、外相が大隈に替わり、辞職、外務省退官。大阪毎日新聞に入り編集総理、社長を務める。1900年伊藤が政友会を創設するとき、請われて幹事長に就任。組織統括を担当。すぐに逓信大臣の椅子が転がり込んできた。原は組織の、人事の原といわれたが、大隈とだけはそりが合わず、暗殺されるまで確執が続いた。21年11月4日、3年あまり政権を担当した原が65歳で暗殺されると、ほどなく86歳で大隈も、そして84歳で山県も没した。翌年が関東大震災である。デモクラシーが国家社会主義へと成長転化してゆく「始発」であった。
 NHKの「プロフェショナル」の特別版、宮崎駿の「風立ちぬ」を見た。72歳の「じたばた」がわが身につまされた問題であった。戦争の道具「零戦」を造った飛行機設計者堀越二郎がモデルのアニメだ。この人の映画はおもしろいが、TVから窺えるのは「単純」思考である。「時代」を一生懸命に生きた、でいいなら、楽(easy)だろうな。もっとも「割り切り」がなければたしかに生きにくい。しかし、一生懸命に生きたとか、生きやすいか生きにくいかは、「どう生きたか」とは位相が異なる。
 「日本人の哲学」を書いている。4年になる。哲学者列伝、文芸の哲学と書き継いできて、政治の哲学を書きつつある。伊藤博文のところまで達したが、大久保を書けばそれ以前は「もういい」のではないのか、という気持ちがせり上がってくる。だが、どう生きたかは、どんな課題を追い、どう実現しようとしたか、実現したか、を書くことができれば「了解」というわけにはゆかない。それでも、一言でその人物を、事跡を表現できなければと思えてしまう。
 すでに1600枚ほど書いたが、これからどうなるのやら。ただし、わたしはお前の事跡はといわれると、私の「著作」ということに決めている。本になったものもならないものも含めて、活字になったすべて、文字どおりの全著作である。それがほぼすべて一本のUSBに入っている。「傑作」が1本書ければいい、それが「わたしだ」と思いかつ述べる人がいる。でも、「わたし」は「わたしが書いたもの」以外に存在しない、というのがわたしの思いである。もちろんそんなわたしでも、いままで以上のものを書き残せることができたらと思う。が、文章が乱雑だ、思考が単純だ、校正がまるでなっていない、などというもっともなお叱りを多々受けてきて、その通りと思っても、生きれば、書けば、乱雑、乱暴、滑稽、半端、……が如実に出てくるのが事実である。
 不遜なわたしは、わたしの10分の1ほども書いてから、生きてから、いって欲しい、と心でつぶやくことにしている。じゃあ濃く厚く生きたらいいのか。価値あるのか。そんなことはない。わたしはどんな生き方をしようと、人の「人生は等価である」と考える。ただし「人権」などと結びつけないでほしいものだ。「等価」とは、Aの人生はBの人生に還元不能ということだ。
 8/27道新夕刊に中村久子さんのインタビュー記事が載っていた。高ぶらず、どんどん美しくなっている。羨ましくもあるし、誇らしくもある。