哲学は文芸である!
哲学は文芸の一ジャンルであり、未熟な表現にとどまっている哲学など哲学の名を戴くことはかなわない。日本の文芸=哲学のエキスを抽出
1986年、44歳のとき、「昭和60年60人の思想家」をメインに論じるというもくろみで『昭和思想史60年』(三一書房)をだし、今日まで4度版を変えてきた。わたしにとって記念すべき仕事である。そのとき、作家・文芸評論家に異例のスペースを割いたという指摘を受けた。驚きと好意的な含みをもってだ。うれしかった。
日本人と日本語を練り、造形し、洗練にこれつとめてきたのが文芸作家の面々である。日本の哲学だとて「言葉」でできあがっている。日本語でだ。文学広くいえば文芸作品に学ばなくて、なんの「哲学」のいいぞ、というのがわたしの強い思いである。
わたしの「文芸」とのであいは、『もし20代のときにこの本に出会っていたら』(文芸社 2011年)に詳しく述べたが、大学に入るまではまことに素寒貧な読書歴にすぎない。文学作品を読むのは「私事」である。これがわたしの変わらない思いであった。そのわたしが文芸作品を評論家もどきのように評し、文芸雑誌の編集にたずさわるなどという姿を30代まで想像したことすらなかった。それがものを書くようになってから40年、『文芸の哲学』を、それも日本の歴史を通観するような大部のものを書いたのである。でも驚きはない。前著『日本人の哲学1 哲学者列伝』でメインにおいた、大きな影響を受け続けている吉本隆明も、世阿弥や兼好も、そして紫式部も文芸家である。本書も前著と同じく大部になった。すべて文芸作品を取り扱った。その精髄を表出しようとした。
ただしわたしごときものでも「文芸の哲学」をまがりなりにも書くことができたのは、「先生」がいたからだ。古代・中世文芸で小西甚一、江戸近世文芸で中村幸彦、近代文学で谷沢永一の三先生である。谷沢先生には、小西、中村両先生の存在を教えていただいた。それに吉本隆明のオーソドックスでしかもマジックのような文芸評論の恩を忘れてはならないだろう。(「あとがき」から)
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1 戦後
村上春樹、司馬遼太郎、松本清張、開高健、伊藤整、山崎正和、江藤淳、丸谷才一、福田恆存、亀井秀雄、谷沢永一、小西甚一、中村幸彦、猪瀬直樹、白土三平、倉橋由美子、大西巨人
2 戦前
谷崎潤一郎、横光利一、田山花袋、泉鏡花、小林秀雄、平林初之輔、江戸川乱歩、高山樗牛、内藤湖南、折口信夫、夏目漱石、坪内逍遙、山本周五郎、菊池寛、正宗白鳥、内田魯庵
3 江戸期
滝沢馬琴、上田秋成、近松門左衛門、松尾芭蕉、井原西鶴、本居宣長、服部南郭、十返舎一九、柳沢淇園
4 室町・鎌倉期
『太平記』、『平家物語』、西行、宗祇、定家、『正徹物語』、『一言芳談』、『方丈記』
5 平安・奈良・大和期
紀貫之、大伴家持、柿本人麻呂、清少納言、『和泉式部日記』、『管家文草 管家後草』、『今昔物語集』、『伊勢物語』、『古事記』、『日本霊異記』、『風土記』
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