◆140404 読書日々 666
「内定を論じる」とどうなるか
『歴史の哲学』は155枚まで来た。1週間で35枚、遅々としているのか、ピッチを上げているのか。
賴山陽の「遺書」とでもいうべき、亡くなる四日前に書いたという「内定を論ず」が『通義』(安藤英男訳 白川書院 1977)の15に入っている。山陽の著書は、『日本楽府』を除いて、没後出版された。私感では、山陽のような高唱に適した書きっぷりはあまりぴんとこない。しかし楽翁(松平定信)の「題辞」をかかげた『日本外史』の最後は、家斉の讃辞、将軍にして太政大臣を賜った、で終わっている。ところが、「内定」(後宮・大奥)の乱れが一挙に国を滅ぼす、と実例を挙げて糾弾しているのだ。山陽はとくに性の紊乱を問い質す。ならば、家斉の時代最も問題を抱えていたのが、「大奥」であった。山陽は家斉に讃辞を送っていながら、徳川政治の決壊を予期していた、少なくとも待望していたということだろう。
山陽の「内定を論ず」を、引き延ばし、徹底的に論じたのが、皇統論の三部作の一作、中川八洋『女性天皇は皇室廃絶』(徳間書店 2006)である。
わたしなりの歴史はこうだ。
最初に「天皇」位についたのは天智(中大兄)であり、継いだのは弘文だ。しかし実質の初代天皇は弘文(近江朝)を滅ぼした天武(大海人)である。ところが天武と后(天智の娘)の間に生まれた草壁皇子が夭折し、后(天武)がピンチヒッターに立たなければならなくなった。もっとまずいことに、草壁と妃(天智の娘)のあいだに生まれた文武も夭折し、后が皇位(元明)についたのだ。さらにさらに文武の子(軽皇子)が幼少のため、文武の姉(元正)が皇位を継ぐ。未婚である。以上は『日本書紀』の世界だ。(あるいは天智の娘が皇位に就くというのは、備忘策ではなく、持統の陰謀ではないか、というフィクションも可能だろう。)
一族のトップが女帝であるという習慣=伝統がなかった。女帝は備忘策である。しかしことは正史(日本書紀)である。トップを男子が継ぐという先例、伝統を、建国当初から簡単に破るわけにはゆかない。それで、直近に女帝がいたという「事例」を示すために、推古を配し、皇極=斉明(重祚)を配したわけだ。(中大兄の妹で、孝徳天皇の后となった間人皇女が、中大兄と夫婦関係にあり、「即位」(?)したという説もある。)
「日本の最初の女帝は誰か?」
皇統譜では、推古である。だが推古も聖徳太子も実在しなかった。では、入鹿暗殺劇に同座していた皇極=斉明なのか。だが蘇我入鹿は、稲目、馬子、蝦夷、入鹿と続く皇室の直近の「祖」である。皇極も実在しない。
建国直後、持統、元明、元正と現れた女帝を、先例のある中継ぎ=備忘策とするシナリオがなくてはならない。ところが『日本書紀』ができあがると、天網恢々というか、ならばというので、文武の子が即位して聖武となり、反対を押し切って光明子(不比等の娘)が后となった。これが最悪だった。光明子はこれまた強引に聖武とのあいだの娘(阿倍内親王)を立太子にたて、即位させた。孝謙天皇だ。光明子は聖武を棚上げし、弟の仲麻呂(恵美押勝)と組んで、孝謙を操作し、政治を意のままにした。まさに日本版則天武后である。しかも、光明子は元正とともに身持ちが悪い。この母にしてこの子ありで、孝謙は譲位したが、母が亡くなると、淳仁天皇を廃し、重祚して称德となり、道鏡に皇位を贈ろうとさえし、もちろん子がなく、かくして天武(蘇我)系の天皇は、ここで絶えてしまうのだ。かくして登場したのが、天智の直孫にあたる光仁ー桓武の流れである。都も平城から平安に移る。
などと書くと、まるで神聖な皇室をスキャンダラスな特番記事で汚すようだと思われるかもしれない。どう書こうと、建国期、すなわち国号を日本とし、チャイナの皇帝に対抗して天皇位を名のってから、生じた数々の困難は、「内定」から生じたのでもあった。あの「尊皇」で染まっている北畠親房(『神皇正統記』)でさえ、孝謙と道鏡のスキャンダルを弾劾している。ならば、後醍醐と廉子のスキャンダルくらいは、告発しなければならないだろう。山陽は、このスキャンダルを明示している。
明日5日は、中村夫妻に招かれて、こちらも夫婦で落語を聞きに行く。