読書日々 231201 1621 新刊『人物銘鑑』が出る
定年退職して13年目の年である。たんたんと時間が過ぎてゆく。それでも、定年後、というか、時間が有り余る定年後だからというべきか、26冊目の本がこの12月に出る。平均すると1年に2冊の割合だ。新刊は、『人物銘鑑 古今東西今関西』(言視舎)である。その「あとがき」を3日前に送った。ほっとしている。そしてやはりのことうれしい。
あとがき
1 「関西人は世界人」のモデルを、主として、わたしは三人の関西人から教えられた。今西錦司であり、梅棹忠夫、そして開高健だ。しかも、高校生の最後近く、開高健の小説を読んだばかりに、受験校を阪大に変えたため、札幌圏から関西に流れてくる結果となった。
といっても、わたしが「関西人」であることを自覚させられたのは、1980年代末の大学闘争で、東西の各大学院生協議会の討論中、わたしが関西弁で相手を辟易させたときではなかったろうか。わたしは、「議論」(論争)に勝ったと思ったが、相手は「奇天烈」なわたしの関西弁に戸惑った結果らしかった。
いまでは、そんな機会はほとんどなくなったが、静かに議論するとき、わたしからおしとどめよ
うもなく「関西弁」の「本音」が流れ出てくる(ように感じられる)。だが開高は、大きな声の持ち主である。関西風ではない(だろう)。一度だけ、来道した講演で、赤いセータを着た開高を見に行ったことがある。大声で、アマゾン川の水が涸れる、地球は砂漠化する、という環境破壊の現状を告発するものだった。文学者らしからぬ様に思えた。
2 哲学は、文学と同じように、「作者」抜きには存在しえない。わたしが「人名辞典=事典」類を多数書いてきた理由で、わたしの好きなスピノザやD.ヒュームを書く場合、いつも伝記作家になったつもりで書こうとしてきた。
3 そして、山田風太郎『人間最終図鑑』がみごとに示したように、人間のエキスは「死」に現れる。そういえば、わたしも『理想的な死』をはじめとした「人物」論を書いたのもまた同じような趣意からであった。
日本人で世界標準の最右翼は誰か。福沢諭吉である。その福沢諭吉論を、時代小説スタイル
(『福沢諭吉の事件簿』全3巻 言視舎)で書いたことも付記しておきたい。
最後に、言視舎のみなさん、いつものようにありがとう。とりわけ社主の杉山さ
ん、人物論を出すチャンスをいただき、深甚の謝意を表します。
2023年11月末日 雪が降り消えた札幌から 鷲田小彌太
なぜか一つホッとしたところがある。関西「人物」紹介は、『中外日報』(98/7-99/8)月2回連載、プルタルコスの人物論(社長の哲学)と古今東西(世界)の処世術(「社長の読書」)は、企業系雑誌『日経BP マンスリー』(09/4~11/6、07/4-09/3)に長期連載した。ともに編集者に迷惑を掛けたと思える。でも勉強になった。報酬も十分戴いた。その上、『日本人の哲学』を書く、ウオーミングアップにもなった。
しかし、やはりわたしは「関西人」になりたかったが、根のところは変わらない、どんくさい北海道人である。「関西」は憧れにとどまった。ただし、タイガーズは「最悪」だった。
北海道についても、あれも書きこれも書いてきた。しゃれた関西人にはなれない、というのが本音である。でも、いまでも、本音の部分を語ろうとすると、関西弁(らしい)語りになる。梅棹さんの小さいがきつい語法を学びたかったが、それは梅棹本で我慢するしかない。