読書日々 1622 熱魂系・阪本勝 

◆読書日々 231214 1622  熱魂系・阪本勝
 1 言視舎の杉山さんから、新刊『人物名鑑 古今東西いま関西』できました!、というメールが入った。うれしい。続いて、先週の「読書日々」がアップされていなかった(?)、という伝言があった。えっ、?!?、……。たしかに書いて、アップしたはずだが? パソコン内を探したが、ない。
 夕食時、規子さんに話したところ、あ、井上さん(元私設助手)からも、そんなメールがあった、といわれる。間違いない。
 新刊書と、三五シンシャの「宣伝文」(?)の注文があり、それらを終えて、ほっと一時、いつものように、「積み残していた原稿」に「校正」の手を入れていたのだった。が、たしかにあっというまに「空白」の一週間が過ぎていたわけだ。それとも、酒の飲み過ぎかな。何しろ、出したかったが、出るのは難しいと思えた「古今東西 今関西」を、紙媒体で手にすることができるのだ。うれしくないわけはない。
 これまで、読書日々、1621回、ときに忘れることがあったが、特に井上さんからの有り難い「指摘」があり、そのつど穴を空けないように凌いできた(はずだ?)。400字詰原稿用紙に直すと、4800枚を超えている。単行本に直すと20~30冊になる。すごい量のようだが、多くは、歳時記とそのときどきのメモである。それでも、遅れがあったが、忘れきって、補充なしの「空白」というのははじめてだ。ま、これも一つの記念になるかもしれない。
 ちなみに第1回目が、010509で、東直己さんの『残光』がミステリー大賞を受賞した記事だ。私たち夫婦が、二人で、珍しく「乾杯!」した記憶がある。それから20数年だ。長い、だが、数分にも思える。忘れない方がいいが、「忘れる」のもこの歳の通例だろう。
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 *『中外新聞』連載
●他力・自力・博愛の雑イズム
 大正時代の学生の愛読書をあげるなら、最右翼に倉田百三『出家とその弟子』(1917)が、最左翼に高畠素之訳・マルクス『資本論』(1920)がある。これにキリスト教的な博愛主義、例えば賀川豊彦『死線を越えて』(1920)を加えると、大正教養主義の大まかな説明がつく。
 戦後の革新知事の草分けの一人であった阪本勝(1899-1975)兵庫県知事(1954-62)も、この大正教養主義の洗礼をもろに受けた一人であった。人は阪本を指して文人知事といった。文人や学者知事は、近くは石原慎太郎東京都知事、長洲一二神奈川県知事など枚挙にいとまがない。あれもいればこれもいる。しかし、他力の仏教と、自力のマルクス主義、博愛のカソリックという、一見してほとんど相容れないイズムをあわせもち、しかもそのいずれにも属さず、自由奔放で、自らは独立独歩といい、他からは独断専行といわれた個性的な政治を展開したのは阪本をおいて他にないのではあるまいか。
 阪本は尼崎市出身で、父は眼科医、母方は天満で酒造業を盛んに営んでいた。北野中学から旧制二高(仙台)に土井晩翠を慕って進み、東大経済学部を卒業、典型的な秀才コースを歩いたわけだ。しかし、教師や毎日新聞記者、関西学院大講師時代は短く、後に阪東妻三郎によって制作演出された処女戯曲『洛陽飢ゆ』(1927)を刊行後、最初の普通選挙法にもとづく地方選挙で、日本労農党公認で兵庫県議に初当選し、その後、衆議院議員になる。
 政治家になることは阪本にとってもっとも嫌悪すべきことだった。政治を商いとする政治屋は利権によって無私と独立自尊の精神を奪われるからだ。その固い決意を翻させたのは賀川豊彦の「社会という生きた本を読め」という言葉である。戦後公職追放になるという苦難時代を経て、五一年尼崎市長に当選した阪本がすぐに着手したのが、防潮堤の建設と蚊の駆除である。
 尼崎はかつて大企業というより中小零細企業の吹き溜まりで、いまでいう公害の町であった。それに、自然の「災厄」が加わった。大阪湾の最奥に位置し、工場の地下水の汲み上げで地盤沈下が続いたため、毎年押し寄せる台風の高潮の攻撃にあった。それに、武庫川の東はもともと低湿地帯で、大量の蚊が発生した。高潮と蚊の攻撃を防ぐことで、住民の生命と財産を守り、健康な生活を保障する行政の本義を示したわけだ。
 阪本で逸してはならないのは、パリで夭折した天才画家佐伯祐三(1898-1928)に対する友情である。二人は北野中学で五年間同じクラス、絵心もあった阪本は佐伯に強い影響を受ける。自らパリに赴き、死の真相を探索した阪本は、佐伯を「純粋で無垢で、一本気で、まじりけのない一個の個性であった」(『佐伯祐三』一九七〇年)と書く。それは政治家阪本にして失いがちな自分の魂(個性)の奥所を表白しているといえるだろう。