読書日々 667

◆140411 読書日々 667
雪が降って、とけて消え、降る。春は足下にやってくる。
 朝いちめんの雪景色が昼前にはとけて消える。そんな日が2日つづいた。といっても天気予報通りである。今日は朝帰りで、庭の端の雪の上を冬毛の狐がとことことみすぼらしけに歩いて行く。最近とんと狐の姿を見なくなったが、エキノコックスの元凶として嫌われ続けてきたからでもあるだろう。
 まずいことに「時代劇チャンネル」を2年ほど見てきて、見るべきものがなくなった。必殺シリーズは、かつてよく観ていたのだが、こういう体のものは2度観たくはない。
 そんな折の朗報だ。NHKBSで、先週の金曜日から、藤沢周平の神谷玄次郎捕物控「霧の果て」がはじまった。たしか20年以上前、古谷一行が演じたシリーズがあった。今度は朝ドラで活躍した高橋光臣である。硬すぎるかなと思ったが、これがなかなかいける。それに藤沢原作のものは、台詞まわしまでテレビ向きだ。刑事と医者が主役のドラマばかりが大流行だが、捕物控も刑事ドラマだろう。
 古谷といえば、濡れ場役も上手かった。というか、地のような気分が出ていた。もう老け役専門になったが、出る役出る役、主役の気分が抜けないようだ。これはまずい。その古谷が、西村京太郎のトラベルミステリー、十津川警部もので亀さん役を演じだした。現在、渡瀬恒彦ー伊東四朗、高橋英樹ー愛川欽也、高嶋政伸-古谷一行コンビが演じている。古谷役は態度がでかい。警視のような感じさえする。原作を読んでいないので何ともいいがたいが、伊東さんの亀井刑事ははまっている。英樹はどんな役をやっても、英樹で、観る気がしない。
 というようにTVは尋常な愛好者ではない。年を取るとTVに向かって話すそうだが、わたしは意識的にさえ、そうすることにしている。
 4/10 井上美香さんが、書斎・書庫の通路に並んだ書籍を片付けに来てくれた。手慣れたものだが、書棚には空きがない。引き出した本は元に戻すのですむが、行き場を失った本は、段ボールに詰めて、積んでいる。ま、2度と陽の目を見ることもないだろうが、残念だ。
 新刊というか、『「自分」で考える技術』(1993)の新版である。ブログにアップしたが、続いて『まず「書いてみる」生活』の文庫版(文芸社)だ出る。そのあとがきを、昨日書いた。

*わたしがもっとも大事にしている自著に『入門 論文の書き方』(1999年)があります。10刷りを超えたのですから、かなり売れた本です。
 「入門」は、編集者がつけたので、わたしとしてはたんに「論文の書き方」を書いたにすぎません。大げさにいえば、どんな「論文」を書くのにも対応可能な内容を述べました。もちろんエッセイでも、さらには小説にだって応用可能です(と思っています)。
 総じて「万能薬に妙薬はない」といわれますが、拙著は「万能薬」を目指しています。誰にでも、どんなジャンルやテーマにも、対応可能な「書き方」をです。もちろんわたしの発見ではなく、モデルがあります。梅棹忠夫『知的生産の技術』(1969年)です。わたしは梅棹さんのやり方を、さらに大衆化しました。より単純に部品化し、ベルトコンベヤー化したのです。もちろんわたしも実践者です。
 しかしこのやり方は、多少ともものを書いた人や、書くことに特別の思いをもっている人たちには、不人気なのです。文章はすらすら書くものじゃない。大量生産品ではない。こう思われているのですね。
 それで「定年から書く意味」というテーマの本を書けという注文が来たとき、「書き方」もふくめて、なぜ書くのか、定年後になぜ書く意味がとりわけ重要になるのか、を書きました。それが本書です。
 もとは新書版で、今回、出版社を改め、文庫本になりました。新しい読者にまみえるチャンスをふたたびえたのですから、著者にとってこれほどの幸運はありません。
 わたしは定年・退職後も、あいかわらず書いています。時間はありますが、スタミナは、グンと落ちました。でも、朝、目を覚まし、すぐに仕事にとりかかる生活が続いています。書き続けているからこそだと思います。それに書いたもので皆さんにまみえるチャンスもなくなったわけではありません。これも幸運に違いありません。この幸運を共有してみませんか。わたしの心からのメッセージです。
 最後に、本書発行の契機を与えてくださった祥伝社編集部の水無瀬尚さん、そして文庫本化すすめてくれた文庫部編集長の佐々木春樹さんに、感謝の意を表したいと思います。ありがとうございました。*
 なかなか善く書けた。そう思います。老人のうぬぼれですね。