読書日々 668

◆140418 読書日々 668
「STAP細胞は合理性の高い仮説である」
 急に春めいてきた。風は強いが、南からも吹く。
 4/10 井上美香さんの本の片付けが終わり、ひさしぶりに街に出た。「たぱす」で待ち合わせ、同席の客の店に流れ、エルミタージュにいって、わかれた。さてそれからは覚えていない。とてもまずいことだ。
 CSの時代劇チャンネルで「真田太平記」がはじまっている。85年にNHK大河ドラマで放映されたシリーズで、原作は池波正太郎、彼の最大長編(新潮文庫12冊)である。真田ものは、立川文庫流れの「真田十勇士」「猿飛佐助」「霧隠才蔵」を読んだのか、それとも映画で読んだのか、判然としない。しかし池波の真田太平記は、一風変わった読み物だ。かなり前になるが『時代小説に見る親子もよう』(東京書籍 2000)を書き下ろした。21冊の時代小説に親子関係の諸類型を探るという体のもので、なかなか苦労したことを憶えている。
 真田昌幸は黒田官兵衛と並び立つ策士で梟将と自任していたが、何せ、主とたのむ甲斐が滅亡した後、越後の上杉、甲斐の徳川、関東の北条に挟撃された小国である。生き抜くだけでも大変だったが、天下を狙っていた。
 その長男が信之(源三郎)、次男が幸村(源二郎)である。信之は正妻の子で、幸村が妾の子だったため、同年生まれだとはいえ幸村が嫡男に生まれたのに、二男とされたのだった。ドラマではすらっとした長身の幸村(草薙正雄)と背の小ぶりな信之(渡瀬恒彦)だが、原作ではこれが逆なのだ。
 真田は、父と幸村は豊臣方に、信之は家康の忠臣本多平八郎忠勝の娘をもらって徳川方というように、東西決戦がどのようになっても生き残るという作戦を立てる。すでに観たドラマだが、原作の跡をたどりつつ再観していると、時代小説だとはいえ、否、時代小説だからこそ、歴史の急迫する断面が見えてくる。
 ただし時代劇ドラマを観るとき「距離」感がよくよくわからない作品は歯がゆい。昌幸・幸村が立て籠もった上田は信濃・千曲川流域に、信之が居城とした沼田は利根川上流域のどん詰まりにあるというように、遠いだけでなく、両者の間は急峻な山々で隔てられている。いまでも往来不便なところだ。それをピクニックに行くように往来されると、白けてしまうじゃないか。
 関ケ原後、信之は岳父忠勝とともに家康に膝詰め談判し、父と弟の断罪決定を覆し、父弟の再チャレンジにチャンスを与えたのみならず、沼田(3万石)と旧領の上田(6・5万石)を領し、のち松代に国替(10+沼田3万石)になり、93歳まで生きた。幕藩体制下では、黒田官兵衛は息子長政の陰に隠れたが、真田信之は父と弟の所領も受け継ぎ、外様ながら譜代格の大名として重きをなした。
 『歴史の哲学』が大詰めを迎えている。最終章が「山本七平の革命の歴史哲学」で、『日本的革命の哲学』(1982)『現人神の創作者たち』(1983)『日本人とは何か。』(1989)と、日本人の歴史の哲学三部作というべき作品だ。これが終われば、「日本人の哲学3」が完成する。わたしにとっていちばん困難だった、と思えた「峠」を超えることができる。ここにたどり着いたら一服しょうと思ってきた、季節もいい。でも次のテーマが、ふっふっと湧き上がってくる。
 ところでSTAP細胞云々に一言。
 研究チームの統括者が「STAP細胞は合理性の高い仮説である」というのは科学的言説だが、マスコミでは疑似科学の言説であるらしい。
 「根拠を示せ。再現して見せろ」は遠山裁判で、悪代官や渡世人がが吐く台詞。金さんがもろ肌脱いで入れ墨を見せれば、畏れ入った、は現代の裁判でも通用しない。そして、裁判と科学は異なる。
 1959年代に提起された、中性子星が爆発して飛び散る(とされる)ニュートリノ(中性微子)に質量があるという合理性の高い「仮説」が、1987年スーパーカミオカデンで「はじめて」観測された。だがこの現象が科学になるには再現・反復観測をいう実証作業等が必要になる。その実証作業(works)で2002年小柴博士がノーベル賞を受賞した。科学は合理性の高い仮説の実証である。同時に、厳密な意味では、どんなに実証を重ねても、「変異」が生じる可能性を否定はできず、「仮説」にとどまる、という側面をもつ。
 「十全な真理はフィクションである。」(スピノザ)