◆150116 読書日々 707
三谷幸喜って、やはり凡庸だね。大いなる凡庸ならまだ……
暖かい日が続く。最高気温0度を超える毎日だから、気象台が3月なみの気温だというのも頷ける。
1 それにしても1/11、12の2夜連続で放映された三谷幸喜脚本の「オリエント急行殺人事件」は、お粗末だった。そんなにお粗末と感じたなら、2夜4時間余もつきあう必要はなかろうということになるが、クリスティだ。そうはいかないのだ。
たしかにクリスティの映像化は難物だ。成功例は、TVの登場を待たなければならなかった。活劇ではなく、ポアロやミス・マープル、ベレズフォード夫妻等が主演の、小舞台・少登場人物による心理劇である。
1974年封切り、シドニー・ルメット監督の「オリエント急行殺人事件」は、クリスティ作品で興行的に成功した希な例だ。理由ははっきりしている。(1)ルメットの出世作は、TVの「怒れる十二人の男」(1954)であった。これを57年に劇場映画公開、映画監督デビューを果たし、ベルリン映画祭金熊賞をえた。主演はヘンリー・フォンダで、12人とは陪審員の男たちだ。陪審員が一室に陣取って、暑い一日、事件の真相をまさぐってゆく、心理劇である。まさに「オリエント急行」の乗客数(12+1)と同じで、「オリエント……」は探偵=裁判官vs犯人=陪審員の心理対決劇なのだ。(2)主演者がポアロ役のアルバート・フィニーをはじめ、有名スター揃いである。ところが復讐の標的になる誘拐殺人役のリチャード・ウィドマーク、ジャン=ピエール・カッセルの車掌役とイングリット・バーグマン演じる伝導女の三人以外、適役とはいいかねる。(ま、仕方ないが)全員目立ちすぎる。とりわけひどいのがポアロで、とんだ道化役もどき、「灰色の脳細胞」もなにもあったものではない。(3)全速力で駆け抜ける、なにもかも豪奢なオリエント急行である。東西冷戦期だ。「鎖国」状態で、まわりはなにもない。このコントラストが当然ながらすごい。この密室内での殺人だ。(4)まさに『そして誰もいなくなった』の真逆で、全員が犯人という「怒れる12人の男」の裏版でもある。
しかし原作者のクリスティは満足できなかっただろう。それでなくての嫌いなポアロが、非知的すぎたからだ。
三谷の脚本は、ポアロ側(前編)と、12人の犯人側(後編)の両面から描こうという意欲作だ。しかし出演者が映画の役者に完全に位負けしている。犯人側からの描写も、ポアロの「推理」をなぞるていど以上のものになっていない。たしかに、映画の沈鬱・重厚を振り払うように、TVでは各人、軽躁・軽薄感をにじませようとしている。しかし、喜劇仕立ての悲劇にはなっていない。
それにまずいのは、キャスティングの性格付けで、唖然とするのが、ポアロ役の野村萬斎がまさにフィニーそのままなことだ。すでに唯一のポアロ成功例、TVのスーシェ役があるというのに、あえてフィニーの方へという意図はわかるが、萬斎ではむりだろう。もっとだめなのは、主役の「列車」である。いかに日本製の列車とはいえ、事件設定時(1933=昭和8)、満鉄の「アジア号」(全館冷暖房付き)はまだ走っていなかったが、34年には運行をはじめたのである。「東洋」(オリエント)はとても「オリエント急行」に比定できるようなセットではなかった。それに、列車は全編まったく揺れていない(多少はあったかも?)のだ。昭和日本で最も豪奢な時代の列車「アジア号」と比定されるべき「東洋」(オリエント)は、ただ田舎を走る緊張感の薄い列車にすぎないように思える。金と手間暇を省いたら、原作はよく(エクセレントに)ならない。フジテレビ開局55周年が泣くのでは。
2 『日本人の哲学5』で加藤尚武を書いて、木田元(1928~2014)にきた。ハイデガーと「反哲学」をとりあげる。再読すべき本が多くあるが、『哲学以外』(みすず書房 1997)を読んでいると、木田さんと若いときの読書傾向がかなり符合するので、少し驚いた。木田さんについては、次回で。