◆150123 読書日々 708
わたしがカラオケを唱うのは、哲学者だからだ、なんて?!
1 1/20 大寒の日だ。しかしこの1月は、寒くない。というか、零下10度にもならない。
木田元は、闇屋で儲けた金で(?)山形県立農業専門学校に入り、友人の三井家の本を借りまくり、読書三昧に暮らした。アンドレ・ジッドから始まって、ゴーゴリ-、チェーホフ、……、ドストエフスキーを読みまくり、キルケゴール『死に至る病』を読んでドストエフスキーの「索引」として読めることに気づいた。ただしキルケゴールにも飽き足らなくなり、解説書でハイデガー『存在と時間』が「絶望せる人間の存在構造を時間性として解明している」ということを知り、翻訳で読みはじめたが、さっぱり解らず、何とかこの本を読めるようになりたくて、東北大の哲学科に進んだ。
わたしが最初に読んだのはドストエフスキーの『罪と罰』で、ジッド『狭き門』やヘルマン・ヘッセ『車輪の下』をへて、二浪中にキルケゴールの『不安の概念』『死に至る病』にたどり着いた。はじめ斉藤信治の訳で、次いで筑摩からではじめた枡田圭三郎訳の全集版(1963年)を読み、飯島宗亨先生の影響もあって、二・三、独版(ヒルシュ訳)を買ったりなどしてみたが、倫理学教室はカント以外は卒論の対象にならないといわれ、キルケゴールに本格的に進むことなく、したがってハイデガーまでたどり着かずに終わった。書棚一段にこのキルケゴール読書歴の痕跡がちんまりと鎮座している。もっともゴーゴリ-やショーロホフ、オストロフスキ-、ガルシン、それにチェーホフ等々ロシアものをかなり読んだ。大学の哲学科の「先輩」にキルケゴールやハイデガーを専門にする人がいて、多少は影響を受けたが、やはり『存在と時間』は木田さんの手引きがあってのことだった。
木田さんは、哲学研究家には珍しく(?)雑読の人で、山田風太郎は半端でなく、わたしなどの同世代(?)の笠井潔の哲学風探偵モノまで読み漁っている。恐れ入る。
2 1/23 丸山圭三郎『ソシュールの思想』(岩波書店 1981)は、廣松渉や木田元と問題意識を同じくする、ぬきんでてすぐれた大学の哲学研究者の一人であり、同時に現代哲学の最も困難な問題に取り組んだ哲学者である。
わたしは『イデオロギー論の再認 文化の総体理論に向けて』(白水社 1985)で、マルクスの現在的「可能性」の展開を図った。マルクス理論で「現在」を腑分けするのではなく、マルクスのなかに「潜在」する因子を全面顕在化させ、現在に生きるマルクスを救抜するためであった。でもそれはマルクスの不可能性を自己確認することで終わった。「ないもの」ねだりをすることに他ならなかった。アルチュセール(今村仁司)、プーランツァス(田中正人)、ソシュール(丸山圭三郎)、イリイチ(山本哲士)を水先案内人にしての難業(labor)だったが、作品(work)として残った。
このなかで超モダーンで破壊的だったのが、丸山だった。当然で、人間が「コトバ」をもつことで人間になった「意味」を理論解明する試みを敢行したからだった。丸山は「語学屋」だという声を、丸山を知る人から聞かされ、ますます丸山の試みに拍手を送りたくなった。丸山(1933~93)の書籍を取り出してみると、著者謹呈の「短冊」が入っている本も混じっている。「哲学屋」に代わって、ソシュール『一般言語学講義』の評価を一変させた丸山の力業を思い起こさなければならない。
そういえば、丸山さんは、廣松さんと同年生で、ほぼ同じ年に夭折した。癌だったが、発病して、フランスに遊学中(?)病因は消えたなどと、人を煙に巻いて、亡くなった。講義でマイクを持つと、カラオケを唱いたくなるといい、実際『人はなぜか歌うのか』(飛鳥新社 1991)という、カラオケをめぐる哲学的考察をだしている。納得する。
吉本隆明を除いて、消費資本主義=ポスト産業社会の可能性を評価する哲学言説を聞くことができなかったが、コトバこそ人間の「欲動」、欲求ではなく欲望の源泉場であることを解明したのが、ソシュールであると丸山は言うのだ。
わたしはもっと単純に、コトバによって前人間が人間になった。コトバは人間の本性(nature)である。いま・ここにないもの、いまだかつて・どこにもなかったものを喚起する真の創造者である。人間とはコトバによって過剰な欲望を無際限に発動する存在であり、したがって消費資本主義は人間の本性に適合した社会である。消費資本主義は前代未聞の矛盾を生み出す、資本主義の「一危機」ではあるが、「終焉」ではなく、ましてや人間の終焉ではなく、人間の本性に「適合」したやっかいだが可能性に満ちた社会である、という。