読書日々 711

◆150213 読書日々 711
三木清の独創「素」  モノグラフィは重要だ
 大学哲学=「純哲」を書いている。『日本人の哲学』全10部全5巻の最終部だ。第4巻は後回しだ。ようやく戦前の前編にまでたどり着いた。主峰は三木清と西田幾多郎である。重要な著作(研究)を残した大学哲学教授は、重要なモノグラフィ(専門研究書)を残している。廣松渉なら『マルクス主義の成立過程』等のマルクス研究であり、田中美知太郎なら『プラトン』(全4冊)であり、下村寅太郎は『ライプニツ』である。田村實は『ヘーゲル法律哲学』(1934)だけで残る。じゃあ三木清はどの哲学者あるいは著作のモノグラフィを残しているのか? これがすっと決まらない。
 日本の大学哲学は、西欧哲学の輸入と移植にこれ努めた。だが、昭和に入るまでこれといったモノグラフィを残していない。そんなことはない。和辻哲郎の『ニーチェ研究』(内田老鶴圃 1913)『ゼエレン・キエルケゴオル』(内田老鶴圃 1915)があるじゃないか。あるいは波多野精一『スピノザ』(警醒社 1910)があるではないか、というかもしれない。たしかに和辻の2著、波多野の著述(大学院卒業論文=独文の翻訳)は重要だが、二人にとっては準備期の著作である。それが二人の思考を決定づけたものかというと、そうとは思えない。
 三木の初期にはパスカルとマルクス(『ドイツ・イデオロギー』)というモノグラフィがある。ともに三木の哲学を決定づけた研究だ。などというと、パスカルもマルクスも、大学哲学の研究対象としては異端あるいはマイナーのそしりを免れえないだろう。だがそれをあえてするというのが三木ではないだろうか。
 三木は、日本大学哲学の主峰のひとつだが、過渡期の人である。日本哲学は、それまでは輸入・移植を主目的としたが、移植する前に独種の花を咲かせようとして、こぞって「日本風」を競うとしたのである、というのがわたしの見立てである。結果、移植も不十分、独創性はこれまた不十分になった。その典型が田村實の「師事」した紀平正美で、ヘーゲル哲学(弁証法論理)研究の窓を開いたが、すぐにヘーゲルの生煮えの「論理」(弁証法?)を使って東洋思想を解明し、皇国史観の哲理を喧伝するという挙に出た。これは大学哲学自体の自己否定でもあった。
 西田幾多郎と田辺元は、大学哲学の巨峰に数えられる。しかしこの二人には、西田哲学(場所の論理)や田辺哲学(「種の論理」)を残そうとしたが、これといったモノグラフィがない。ために西田『善の研究』(1911)の「純粋経験」は、つとにプラグマティズムのウイリアム・ジェームズから「剽窃」したものだ、などといわれる原因にもなった。むしろ二人には「独創」というよりも、ハイブリッド仕立ての固有種(折衷派)を狙ったといわれる側面を強くもっていたのだ。これはこれでいいのだ。
 独創的な思考者は、「複製」を少しもいとわないし、恥ずかしいとも思わない。洋の東西を問わず、学ぶとは、真似ぶことからはじまるだけでなく、ひたすら真似ぶことなのである、というのがごく当たり前のことではないだろうか。大学哲学の強みは、この真似ぶにある。モノグラフィ研究を欠かしえない理由だ。
 たしかに三木は京大にポストをえることができず、大学哲学の「枠組み」から外れた。マルクス主義者になったが、主義者に裏切られ、はては近衛のブレーンになる。しかしその三木が治安維持法違反で逮捕され、敗戦後に48歳で獄中死した。高倉テルなどという主義者に資金提供したことが原因であった。三木が戦後も生き残ったら、という「タラ」を何度発したことだろう。答えのほとんどは「いい結果」を生まなかったに違いない、であった。このなぜにも、答えてみたい。
 それにしても、廣松さんも三木も「共同体」論が好き。そう思える。わたしたちの世代にも、アソシエーションとかコーポレーションとか、果ては「帝国」の「再」利用などという論者がいる。何か「晩年」になればなるほど、正確にいえば死期が近くなればなるほど「共同体」が気にかかるらしいのだ。もしかして、「お助け小屋」につながったりして。