読書日々 726

◆150529 読書日々 726
鮎川信夫のコラムの力  ジャーナリストの教科書
1 5/25月 2月ごとに、血圧の薬をもらい、4月に1回血液検査を受ける。もう20年以上、同じ医者に診てもらっている。先生は、いまは個人営業をやめ、勤務医になっている。血圧の他はおおむねよろしい、とい診断だった。ところが、今回の検査で、糖尿疑惑が出た。再検査を、今日やってきた。まったく正常値であった。といって、暴飲である。特に5月は、大阪で3日、帰って、ススキノで2日、倒れるまで飲んだ。その直後の検査だ。その要因もあるだろう。先生から電話があって、再検査と聞いたときの女房の顔は、なぜかうれしそうだった(ように見えた)。仕事中だったので、気にもとめなかったが、そう見えた。
 たしかに、私の父も、祖父も酒を飲めないのに、糖尿病だった。幸運なことに私は、母方に似たらしい。母方は、全員(?)が癌で亡くなっている。だがわたしには癌の兆候もない。
 飲みに行くと、「糖尿?」といわれる。「隠したって、ムダよ!」などという顔をされたこともなんどもある。ひどいのになると、「おまえの入ったトイレは、甘い臭いがする」という無知なものもいる。ま、どうでもいいが、「糖尿」だけでは、わたしは死なないように思える。先生に、早とちりを何度も謝られた。少しも気にしていない、といったら嘘になるが、ひさしぶりにたばこを買ってきて、3本飲んだ。ピース、新生、いこいである。ただし、両切りではなかった。(「両切り」というのはどうも死語らしい。タバコを飲まないわたしがこれをいうのも妙だが。)
2 鮎川信夫は、「荒地」の詩人である。この派では、田村隆一が好きだった。鮎川の名は、吉本との対談を通して知っていたが、その詩を読むことなはなっかた。
 1980年代というのは、わたしたちの世代にとってもっとも「困難」な時代だった。マルクス主義の廃退ははっきりしていたが、80年代に生じた大小さまざまな難問の「先」が見えないのである。「漂流」といわれていたが、わたしはその先に「光明」が見えるような感じがしてならず、どんな事象にも身を寄せて、自分で答えるトレーニングを積もうとしていた。
 このときの思考トレーニングは、平成になって、毎日、北海道、東京新聞、日刊ゲンダイで連載する「コラム」を書くようになると、効力を発したように思えた。ジャーナルの世界で生じる「事件」を扱った。膨大な量である。「わたしの平成史」である。
 80年代にわたしがトライアル・アンド・エラーで思考したときに、「リトマス試験紙」としてもっとも効力を発揮したのが、『週刊文春』で82年から連載しだした、鮎川顔信夫の「コラム」(1800字)であった。戸塚ヨットスクール、三浦ロス疑惑、田中角栄ロッキード裁判、どれもこれも、激しく頭を叩かれる式な痛棒を食らった。
 鮎川は、吉本に「エラーを恐れるな!」とだめを押す人である。もちろん、自説とその論理に明らかな誤りがあれば、撤回する。たとえば、ロッキード裁判では、最初、小室直樹の田中無罪説に同調したのに、最後は、渡部昇一の田中擁護を退け、立花隆の「田中有罪」論を全面肯定する。なぜこんな明快な論を振ることができるのか。
 それを探って、鮎川の『ひとりのオフィス 単独者の思想』(思潮社 1968)を読み、『私のなかのアメリカ』(大和書房 1984)へと戻り、『最後のコラム』(文藝春秋 1987)と『私の同時代』(1987)を参看した。
 納得した最大のことは、鮎川が「アメリカ」を戦後一貫して読み続けてきたことに、その思考判断の材料=源泉あるのでは、ということだった。特に、編集方針が変わらず、しかも良質なジャーナリズムを守り続けている『ニューヨーカー』を丁寧に読み続けてきたことにあるらしい。
 だからこそ、はじめ人権侵害の「テロリスト」まがいにニューヨーク市民とりわけインテリに排撃されダーティ・ハリーが、1980年代、「ダーティ・ハリーの勝利」にいたった経過がよくわかった。