読書日々 725

◆150522 読書日々 725
千葉敦子『ニューヨークの24時間』はわたしの宝の一冊だ
 ひさしぶりに連チャンで街を飲みあるいた。編集者のベテランの背戸さんとだ。「うめ野」からはじまり、「タパス」、「煌」、場末の「バーサン」にも流れ、カラオケもやった。「きらく」にいき、画伯にも久しぶりに会い、最後に「木曽路」に一人で寄った。深夜に至ったが、朝早く起きて、二日目も別なコースをたどり、ホテルに倒れ込んだ。歯は磨いたが。両日とも、翌朝早く、自宅に戻った。仕事をした。エンジンがかかっている。
 千葉敦子『ニューヨークの24時間』(彩古書房 1986)はとても懐かしい本だ。書庫を探したが見つからない。古本屋に二束三文で売っぱらったのかな、と思えた。たしか文春文庫に入っている。そう思ってつて、パソコンの前に戻ろうとして顔を上げたら、目の前に見えるではないか。古い、懐かしい造りの本だ。
 1980年代、物書きがせいぜいよくてワープロで仕事をしはじめたときだ。若手の作家たち、広瀬、東、森谷、蒲生さんたちが『北方文芸』に書き出した頃で、手書きの原稿用紙でないと受け取らぬ、と古手の編集者(?)たちいきりたっていた時代だった。
 千葉(1940~87)は、フリーランスの「国際」ジャーナリストで、83年からNYに移住してがんがん仕事をしていた。そういう時代の、PCを使っての奮闘記である。わたしはまだワープロさえ使っていなかった時期だから、羨ましくもあり、すごいなと思えた。
 PCで仕事をしたら、能率が上がるだけでなく、脳力があがる。そういうメッセージをこの本は出していた。わたしがはじめて、まるまる一冊をワープロで書いたのは、1990年のことで、『大学教授になる方法』(青弓社 1991)だった。この本が売れた。PC(アキア)を使って書き始めたのが90年代の半ばである。千葉より10年遅れていた。
 ジャーナリストの通弊なのか、乱雑無計画に生きていた千葉が、整理整頓よろしく「予算」通りに生きはじめたのは、両乳房を癌で失い、余命があまり残されていないと知ったときだ。NY移住も決断の表れである。じたばたではなく、今日も明日もぎりぎりまできっちりと生きる、ということだ。「仕事」を中心においてだ。
 梅棹忠夫は、世界で最初に「情報産業社会」(第4次産業)の到来を予測した。吉本隆明は、消費中心社会の開始を、概念と数字で表した。すごい。立花隆は、現前で進行している政治や科学の世界をウォッチし、だれにも分かる言葉で表現した。一世代前の、「勘」で勝負した、小林秀雄や大宅壮一たちとは異なる、新時代人だ。だが、彼らは、PCを道具として利用したが、PCでは書かなかった。PCはたんなる道具ではない。彼らが的確に語ったように、社会の改造者、イノベーターである。コンピュータ社会の主役、「思考する機械」である。ただし「勘」では働かない。
 千葉はコンピュータで仕事をして、PCが思考の機械だということを実感していたように思えるが、そうとははっきり書いてはいない。わたしは千葉と同じ世代で、その千葉より10年遅くPCで仕事を始めたが、この10年で、PCはどんどん進化し、いまなお進化している。ジャーナリズム(新聞雑誌)とアカデミズム(学術論文)を水平化したのが、梅棹、吉本、立花だとしても、その水平を大衆化したのはPCである。PCで書いたら、書けてしまった。教養は頭の中に詰め込む、体得するのではなく、PCのなかに集積する時代がとうに来てしまっているのである。
 「新聞」記事は、その面積で、重要度を知ることができる。新聞を読む必要があるのだ。こう強調した、古手のアナウンサーや女優がいる。だが新聞屋が決めた、量の大きさで重要度(質)を測る時代は、とうに過ぎ去っているのだ。
 いまでは村上春樹を大衆小説家だとはほとんどの人はいわないだろう。しかし大衆小説とは、たくさんの人に読まれる小説のことだ。ジョイスは大衆小説家にはなれなかった。モームは大衆小説家になった。村上春樹は、始めから終わりまで、大衆に読まれる小説を書いてきた。村上の幸運でなくてなんだろう。そういう村上は、PCで書く。