読書日々 770

◆160401 読書日々 770
楽しい宮崎・大分ミニ巡礼。でも、通し番号は間違うわ、頭は打つわ!
 2001年5月からはじめた、週一のこの読書日記というか、仕事・飲酒日記とでもいうべきものが、切れのいい500回(何と通し番号が間違っていた。じつは770回である。)を迎えた。第1回目は、東直己さんが『残光』(角川春樹事務所)で第54回の推理作家協会賞を受賞した記事で船出した。数えで15年の歳月を閲したことになる。こう数字で書くと、実に長い感じがする。
1 今回は、ひさしぶりに、及川さんが引率する宮崎と大分を巡礼した旅の報告となる。
 非キリスト者のわたしがこのミニ巡礼に参加したのは、第一に、日本で足を踏み入れなかった唯一の県が宮崎県であったことと、横光利一の『旅愁』、「純文学にして大衆小説」を書くという野心を持った未完の著で最も印象深かった箇所、巻末部分、主人公矢代がカトリックの千鶴子との結納を終え、父の遺骨を抱いて、父の出身地(裏九州の山城)を尋ねる、最も印象深かった「郷愁」の点描部分を、勝手に、豊後竹田の岡城址をモデルにしている、ここだけは行きたいな、という想いが叶うチャンスであったことだ。
 それに岡城は、キリシタン大友一族が島津に攻められ踏みこたえた難攻不落の城であった。西洋文明と東洋思想の相克に悩む、矢代(横光)の葛藤がこの一カ所に集約されているような気がしたのだ。(ただし、『旅愁』当該部分をめくってみると、大友宗麟に攻め滅ぼされた城がはじまりで、その後、島津と対峙したことになる。作品では海が見えるとあるから、山中の岡城址ではありえないことになる。わたしのイデアの夢にちがいなかった。ま、小説=フィクションだから、さほど気にする必要はないが。)それにしても現実の岡城址は、イデア以上の偉容さをとどめていた。江戸期、移封された中川氏の手によって完成されたものだという。数十メータの城壁・岩壁にはほとんど柵もなく、縁に立つことは、考えるだに怖ろしい。
 歴史はいつの場合でも、自国・地域・自派・自己中心であることを避けることはできないが、キリスト教中心の歴史は、なるほど日本人には特異で、観光の対象にはなりうるが、偶像崇拝がきつすぎて、残念ながら、さほど好きになれない。
2 ミニ巡礼の前、2日東京に泊まった。文芸社や言視舎の編集者と飲むのは恒例で、巡礼友、岩崎さんとキヨさんとも飲んだ。へろへろだったそうだ。翌日、宿願の都電荒川線を起点から終点まで堪能し、早稲田寄りから神田川の桜街道を堪能し、有楽町に出て、三代目文治で、昼食を摂った。ところが段差に靴裏かかとを引っかけて、前に倒れ、膝と右手で受けたが、肩にかけた鞄が前に投げ出て、体を支えきれず、前頭部で受け止めた。ガン、と鈍い音を立てた。革の帽子をかぶっていたので助かったのか、血は出なかった。頭は固い方である。少年期、川に飛び込んで、石に頭を打っても何ともなかった。それ以来か、自分を「天才」と思えるようになったのは?
 それはともかく、やはり、その後のミニ巡礼中、頭に傷が出来ているのが判明し、多少おかしかった。ま、こうやって老化が進行してゆくのだろう。
3 旅行の最大善は、本(活字)を読まないこと、TVを観ないことだろう。朝早くミサを受け、「聖地」巡りをし、夜は食事と温泉に浸るが、ホテルの食い物と温泉が苦手なわたしには、あまり嬉しくない。でも最後の昼食、城下カレイで有名な日出(ひじ)のヒラメのフルコース(?)は旨かった。各地から9名の巡礼者が集まり、吉田神父を加え、旅をする。車内の会話が面白い。ところが、驚いたことに、客8人ではわたしが一番若かった。
 最初の巡礼地、宮崎教会でのミサに、曽野綾子さんとゆく聖地巡礼仲間にであった。示し合わせて、わたしに知らせておかなかったらしい。宮崎教会は、岩崎の会社さんが設計を引き受け、吉田繁神父が司祭をされている、新築の教会だ。翌日、ミサのあとで、広い中庭でパーティをし、ひさしぶりに仲間と親しく会った。そこで別れ、高千穂に向かってた日がはじまる。
4 30日夕方、大分空港で飛行機に乗り、羽田で乗り継いだが、千歳上空で、濃い霧のため着陸不能となり、羽田に引き返した。多くの乗客とともに、椅子に座って仮眠し、31日早朝、千歳に戻った。いろいろあるが、なんでも嬉しい。そう思える。31日は、眠くなく、終日、TVを観た。
 4月である。さあ、がんばろう。『日本人の哲学4』がまっている。