◆160408 読書日々 771
今西錦司と伊谷純一郎 「サルにもわかる文章を書け」
暖かい日が続く。気温だけならかくじつに春で、桜が咲きそうな雰囲気だ。
1 「とと姉ちゃん」がはじまった。『日本人の哲学』8「人生の哲学」で、花森安治をトレースする必要がある。それに『暮らしの手帖』社長の大橋鎮子をモデルにした小橋常子の伝でいけば、わたしの姉(早智子)は、母の代わり、「かか姉ちゃん」だった。4歳(学年3)しか違わなかったが、5人の姉弟妹の取締役だった。何よりも怖かったのは、姉に逆らえば、飯を食わせてもらえなかった。「あさが来た」はわたしの仕事(『福沢諭吉の事件簿』)に深く関係したが、今回の朝ドラは、公私にかかわる(と思える)。
2 今西錦司の代表著作は、①戦前に『生物の世界』(1941)=カゲロウ研究、戦後に②『人類の誕生』(1968)=霊長類研究、③『主体性の進化論』(1980)、④『自然学の提唱』(1984)となる、といっていいだろう。この流れは、わたしが長いあいだ(ただし大した量ではないが)今西の著作を愛読してきた順序とも一致する。
今西が「遺書」のつもりで書いた①を現代日本思想体系26『科学の思想Ⅱ』(筑摩書房 1964)ではじめて読んだのは、学生時代だった。わたしが在籍した文学部には、社会行動学に依拠した実験心理学講座があり、サル(実験動物)を飼っていた。フィールドワークを主体とする今西はとは違う方向のサル研究である。(右総代になった(?)同級生=女性がそこから実験助手をへて教授になっていったのではないだろうか。)
通常、今西の研究で最も興味深いとされるのは、立花隆がロングインタビューを基部に書き上げた『サル学の現在』(平凡社 1991)という長尺書(700頁余)に記された霊長類=「サル」の調査・研究ということになるだろう。
しかし、今西の自著や、斎藤清明『今西錦司 自然を求めて』(松籟社 1989)や本田靖春『評伝 今西錦司』(山と渓谷社 1992〔講談社学術文庫〕)さらには今西錦司全集(講談社 全10+補巻3+1)に収録された各氏の証言を読むと、探検・登山家としての今西の(蛮)勇姿が躍如としてくる。ただし酒飲みは出てくるが、女好き(?)はほんのエピソードとして出てくるにすぎない。
とくに戦前、西北研究所はじめ、日本軍の前線基地をさらに飛び出すような形でモンゴルでフィールド・ワークを組織して出て行った今西の活動には、尽きない興味をおぼえる。西北研究所には、若き甲田和衛(大阪大学教授=社会学)も厚生省の技官補として参加している。このキャリアーこそ、阪大で人間科学部を作り、放送大学の学長で職を終えた甲田先生が、最先端のコンピュータ社会(調査)論に手を染めながら、終生、野武士のような勇姿を垣間見せていた原因ではなかろうか。
ところが、戦後、学生時代から今西に師事し、そのフィールドワークを受け継いだ、したがって、教授就任が今西と同じように50代の半ばに達した伊谷純一郎の証言に照らし合わしてみれば、今西のフィールド・ワークは、カゲロウ研究に始まり都井岬のウマで終わって、カゲロウに戻っている、ということだ。たとえば、②『人類の誕生』は最初、今西の単著として出されたが、実際は、全12章を、4人=今西・池田次郎・河合隼雄・伊谷純一郎と書いた本で、今西の「人類進化」論研究は、この若い三人に代表される後継者にすでに引き継がれていたので、文庫化(1989)されるとき共著にあらためられたのだ。(このとき今西はまだ生きていた。)
伊谷は、今西の後継者として、今西の研究成果を受け継ぎながら、今西の限界、フィールドワークから離れた、テオリックな今西の「限界」というか、「予言」に似た部分を浮き彫りにしている。つまり、②以降の今西の「進化論」は、「科学」としてのベースを稀薄にしていった、したがって、晩年の「自然科学」から「自然学」への転向は、フィールド・ワーク=科学研究が可能な領域を離れた結果だとしたのだ。
わたしは、今西の「自然学」を、物理的自然や分子生物学を欠落した欠陥にもかかわらず、伊谷とは違った仕方で評価する。つまりは、大文字の科学、真理に到達した「全一的な科学」は存在しない、科学はあくまで「分化」(部分学 sciences)である、という意味においてだ。伊谷もいうように、観察・調査→比較・類推をもとにした「科学」は成り立つが、「自然学」も、諸科学と「共存」する「哲学」の一分野として成り立つということだ。これは哲学の溜息ととってもらってもいいが、今西「自然学」は、自然科学者(を辞任する人たち)の前でした、大嘆息ではなかろうか。
今西と伊谷という両巨人の関係は、学(sciences)を志す人間の最良のものに思えて、ため息が出る。