◆160506 読書日々 775
アガサ・クリスティの、ながらな楽しみ方
温度が上がり、家の桜花も2本、満開になった。長沼の桜はどこも花盛りだが、山の上はまだだった。3月の末、九州東部の桜は、どこも咲き誇っていた。その大分県は、いまも揺れている。
1 大型連休も今日は休止のよう。5、6月と、当分いい日が続く。仕事もはかどればいいが、どうもそうは問屋が卸さない。サルから人間の「進化」(変化)の要因は種々わかっても、進化過程は入れ子(カオス)状態だ。同じように、DNAの暗号が解明されても、塩基から生命への「誕生」は、寸前にサルで、直後に人間である、というような断面はない。どこまでも入れ子状態であることに変わりはない。非生命から生命は、「誕生」するのだが、その「誕生」(の瞬間)を認証できない。現行犯で捕まえることは出来ていない。出来ないのか、たんに出来ていないのか? 変化は、必然なのか、偶然なのか。ま、どちらでもいい、同時だ、といえるのは、微積分のように、時間と空間を止めるからにすぎない。そういえば、ガリレイ、ニュートン、レーウェンフック、スピノザ、ライプニツは、みな、同時代人だ。わたしの好きなレンブラントやフェルメール、もそうだ。地動説(万有引力の法則)や微積分を解明した時代で、日本でいえば江戸時代初期に当たる。
福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書 2007)や対談集『生命のはなし』(新潮文庫) 2015)をめくっていると、いろいろな音が聞こえてくるが、特別の驚きはない。この人、ストーリィテーラーだね。
2 このコラム、読書日記なのに、本の紹介がない。そう思われても仕方がない。しかし、最近は、クリスティの探偵もののサイドストーリィで息を抜く程度で、仕事の本ばかりを読んでいる次第で、こうも無味乾燥状態が続いている。というわけで、昨日久しぶりに『福沢諭吉の事件簿2』を読んだ。自作自読である。でも、なかなかいい。ナルシストまがいである。読書のステップ地帯を歩んでいるので、なんでも「いいな」、「湿気がある」ということになるのはわかっている。
クリスティものの「横路」というと、ポアロとマープルの関係である。二人は同じ時代を生きた。無関係にだ。ポアロの方が年長者である(と思う)。ポアロの死は『カーテン』(1975)で明示されているが、どうも一三〇歳という計算になる。(90代だという説もある。)そのときマープルは高齢だが『スリーピング・マーダー』(1976)でもまだ生きている。ただし、二書とも、第二次大戦中の43年に書かれて、死後出版するようにと、文字通り、封印されていた。だが、手元不如意になって、アガサの死の直前、『カーテン』に出版許可がでた。(あの膨大な印税、どこに行ったのか?)
両者の関係は、水のように淡く、なかなか込み入っている。が、無関係ではない。ポアロ主演の『第三の女』(1966)とマープル主演の『ポケット一杯のライ麦』(1953)に登場するニール警部が、二人の関係の鍵を握る、と『アガサ・クリスティー99の謎』(早川文庫 2004)にヒントが示されている。
このニール警部、両作品ではちょい役ではない。ポアロとは周知のあいだで、敏腕警部といえる。『第三の女』でスコットランド・ヤード主任警部であり、マープルとは初見で警部だ。ふたつの作品はともに、アフリカに「謎」があり、マザーグースの童謡を援用した、横溝作品に優るとも劣らない、とてものことご都合主義の作品である。それでもアガサの筆力は、まだ残っている。
3 ま、頭の体操のような、正確には、呆け防止のような楽しみ方をしているにすぎない。それでも、ながらとはいえ、読書であり、傍に本がある。