◆170630 読書日々 836
「秩父」で浅見克彦を思い出した
日差しが強い。「雑草」という表現を使わないようにしているが、それほど丈が高くない庭の草草を妻が、唸りをあげて薙いでいる。前屈みになって、ベテランよろしく快調そうに見えるが、なんとはなしに生気がない。暑さでぼーっとしているようだ。わたしの方もまどろみ気味で、気がついたら、本を投げ出し、うつぶせで寝ていた。妻も、引っ越し準備で雑然としている隣の居室で、寝ている。もう若くない。お互いにだ。
1 鮎川哲也『りら莊事件』を読み始めようとしたら、文字列が頭に入らない。秩父が舞台だ。そうそう、昨年、上京したおり、東武、JR、西武を利用して、秩父の三峰口を頂点に、一周してきた。たしか東武にも特急が今年開通したという記事が出た。……本の方は、文字がばらばらのまま目の前を通り過ぎてゆく。じゃあ、というわけで、鮎川『本格ミステリーを楽しむ法』(晶文社 1986)を開きはじめた。「鮎川哲也推理エッセイ大全」と銘打たれた、504(462+42)頁の大冊だ。晶文社は、わたしの好きな出版社だった。ここから鮎川のミステリー論(?)も他に2冊出ている。3冊とも、こんな「エッセイ」が出れば他にいうことはないというほど、「本格ミステリ」作家の本懐とでもいうべき仕上がりになっている。じつに羨ましい。
2 秩父鉄道といえば、内田康夫の異色シリーズをTV化した「内田康夫サスペンス・福原警部」(主演 : 石塚英彦 TV朝日)の「再放送」を昨日(はじめて)視た。「福腹」(大食い)警部のことで、観光と「食」をプラスした、内田お得意のサービス満点の旅情サスペンスだ。その康夫氏、脳梗塞で休筆中で、浅見光彦シリーズも終わった(?)。このシリーズ、何人の浅見役が登場したか。もっとも成功したのが初代の水谷豊で、適役と思えた速水もこみちがはやばやと姿を消した。たしか中村俊介の母親役・野際陽子もつい最近亡くなった。この女優、演技もへったくれもなかったが、大胆不敵(?)な役をこなした。一種の快優といっていいのではないのか、と思ってきた。
遠くだけでなく、近くで眺めてきた人がどんどん死につつある。といって「ものみななく」(寂兮寥兮カタチモナク:大庭みな子)である。誰であれ、飲んで食ってでわずかに名をとどめるに過ぎない、とは思わないが、それでもいいのだ、とは思える。
3 『北方文芸』で話をするので、自分の書いたものを点検していたら、予想以上に出てくる。わたしの「文学」の範囲は、「書かれたもの」だから、最広義の一つだろう。もちろん、メモの類いも文学かといわれると、稀に文学の名に恥じないメモのある、といわざるをえない。たとえばと聞かれれば、「来た、見た、勝った」(カエサル)の類いである。あるいは「どうしようもない私が歩いている」(山頭火)である。立派な(?)「作品」だ。「人間らしくやりたいな」等のコピーもこの一種だ。
哲学も、もちろん、文学の一種だ。北海道(産)の文学を、「純文学」で代表させる必要はさらさらない。『太平記』は、我々にとっては、時代小説だが、当時は現代小説に違いなかった。『源氏物語』は時代小説でもある。もう少しいいたいのは、北海道(原産)の文学を貧困にしたのは、「純文学」(?)をモデルとした文芸作品をもっぱら取り上げてきたからではないだろうか、という思いがあるからだ。そういえば、司馬遼太郎が登場したとき、覇をとなえたとき、亡くなったとき、いずれにおいても
その作品は「文学ではない」という声が強く文壇のなかにあった。いまも消えていない。
もちろん伝記でも、自伝でも、自分史でも、「文学」もあれば「非文学」もある。地方史や社史で、いちばん困るのは、「今」の時代を中心において、書かれることだ。しかしやっかいなのは、ものみな「自分中心」なことだ。とはいえ、まずいことに「自分中心」を貫くと、すばらしい「自分」が生まれるかというと、自己中の病になり、けったいなもの、なにものでもない、という結果になりはてることだ。