◆180105 読書日々 863
長距離の遠藤日向は、羽生善治になりうるか?
1 暖かく穏やかな正月だった。恒例の実業団駅伝も箱根も、結果は、旭化成と青学が予想通り、完勝で連覇した。
実業団駅伝で特筆すべきは、1区で区間賞を取った住友電工の新人遠藤日向だ。記録がすごい(3000メータ記録歴代1位)というだけではない。高卒後、箱根を選ばず、駅伝を第一義に選ばず、マラソンを優先し、企業に就職、東京オリンピック出場はその次のオリンピックで優勝するためにでる、と明言する。こういう「ガキ」はいる。小3くらいで、東大法学部に進み、国家試験(国家公務員試験第1種)をトップで財務省に入省、30代で政治家(衆議院議員)を目指す、というような生意気を絵に描いたようなガキだ。張り倒してやりたい。だがそれが「豪語」ではなく、努力(industry)も惜しまないのだ。
もっとも東大や国家試験にはトップで合格するガキに、直接であったことはない。が、かつての岸信介(安倍首相の祖父)のような妖怪もいる。岸は東大法をトップ(グループ)で卒業し、満洲帝国の事実上の総理(総務庁次長)になり、戦時中は商工相として日本「国家社会主義」(民有公営)路線の舵取りをした。戦犯になり、出獄後は、自民党総裁になって、60年安保の反政府エネルギーを、自分の首を差し出すことで、「解消」して、所得倍増計画(「経済」)の池田勇人にバトンを渡した。其の後、実弟の佐藤栄作、弟子の福田赳夫の後ろ楯をした。妖怪キシは、2度では、死ななかった。
青学の選手は、東洋大学(総合2位)の選手の走法がかつての瀬古武彦のように省エネで統一されているのに対し、一見、自由奔放、悪くいえば洗練されていないように感じる。その典型がWエースの下田や、実業団に入った山の神野で、かつて瀬古のライバルであった宗兄弟に似ている。どちらがいい、とはいえない。指導者の意想のちがいから来るのだろう。だが、中長距離の逸材といわれた選手のおおくが、大学駅伝、とりわけ箱根で潰れてゆく現実がある。そんななかだ。青学のエース往路3区の田村(追跡する獲物を逃さない)が、東洋のエース山本に追いつけずに、後半、逆に引き離された。中継点の田村のあっけらかんとした苦笑い(?)がじつに印象深かった。「あいつ、強い!」だ。
2 12/31は、ひさしぶりに紅白歌合戦を通しで見た。ただし紅白仕立てのエレファントカシマシに象徴されるように、お行儀のいいドタバタは、もう少し洗練された方がいい。エネルギーが殺がれる。とにかく歌が主役なのだ。
3 昨年12月初旬だと思うが、「朝日」のコラムで、養老孟司が、自著『遺書』を引き合いにして、「意識」が引き起こす弊害について述べている。(以下記憶を頼りにするので、正確を欠く。)
目や耳などを通じて受ける感覚に対して、そこに「同じもの」を見つけ、意味に変換し、秩序を与えるのが意識だ。動物は感覚で生き、人間は大部分を「意識」に依存する。文明化が進む社会で、感覚入力を限定し、「意味」しか扱わず、意識の世界で安住している。とくに、SNSを例に、意識の物質=「コトバ」で切り取る弊害が甚だしい。コトバで切り取ると、意味が一般・通俗・惰性・平板化し、コトバではつかめない自然性が失われる、というのだ。
その通りだが、人間はコトバを駆使して、コトバではつかめない(と思われてきた)ものをつかもうとしてきた。このいたちごっこが人間の営みだ。SNSはまだ初期状態にすぎない。養老さんの意見は、現状批判としては当たっているが、「書く人」養老の言としては「老人」のコトバで、中途半端だ。
4 映像表現(映画)をテキスト(文学)として読解しようとする、中澤千磨夫『精読 小津安二郎』は、多くの映画フアン、とりわけ映画評論家から黙殺されてきたに違いない。邪道だと。素直に、真っ新のまま、映画に対面すればいいのだ。面白みが殺がれる、と。だが中澤の作品は、映画評論(印象批評)が初期状態を脱するための、初めての大きな成果なのだ。映画をコトバ化することで、失われる(だがついには再獲得されだろう)ものと、新たに獲得されるものとの格闘である。
そんな面倒な手続きはいらない。映画に感覚(印象)没入すればいい。そこに映画の文学ではない真骨頂がある。その通りだ。だが、あなたの感覚はコトバによって惰性化されていないの。コトバによって、コトバの向こう側にあるものを見いだそうとする努力、それが文学の真骨頂であり、その研究が中澤文学研究の新境地だ。(なんか、養老さんに劣らず、雑だね。)