読書日々 948

◆190824 読書日々 948
科学と技術について(1)  吉本隆明
 最高が20度、最低が18度、少し肌寒い気温になった。気分がいい。というわけではないが、三宅雪嶺『東洋教政対西洋教政』(上下 実業之世界社 1956)の摘要summaryに熱中していて、この日記のことをすっぽり忘れていた。なんたることか? ただし、摘要のほうは順調。法とりわけ「刑法」について、教えられること多大。
 1 最初に2週のばした「技術」について。
 わたしが属した学科の哲学教授たちも、先輩たちも、「技術」という用語を忌避していた。坂本賢三(桃山学院大)さんは、「科学と技術」を論究したことで、哲学科を去った(と思える)。
 わたしが「技術」の重要性を最初に教えられたのは、吉本隆明「詩と科学の問題」(1949)で、3テーゼからなる。
 1.「科学は自然を模倣しているにすぎない。」ーー科学の科学性
 〈科学が無限に多くの自然現象を組合わせて新たな現象を獲得することは可能なのだが、……科学はおそらく自然を模倣するという決定的な桎梏を逃れる期は永遠にありえないのである。〉
 2. 〈科学は自然を変革するは、惑わしに充ちた空しい考え方である。〉ーー科学の技術化
 「高度の科学技術の発達による人間生活の簡便化というようなことがどうして自然の変革であり、人間の進歩を意味するのだろうか。それが自然の変革という外観を与えるのは技術の複雑な組み合わせが僕らに強いる錯覚に過ぎないので、その根底を貫く原理はいくつかの自然現象の単純な模倣に他ならない。」
 3. 〈原子力の応用〔活用技術〕という問題が提示する重要さは、倫理的意味のうちにある〉
 2.と3.は、『「反核」異論』(1982)に、さらには『「反原発」異論』(2014)へと一直線につながる基本テーゼだ。
〈原子力の応用的実現ということが僕らに提示した唯一の問題は……僕たちの人間性が実生活の簡便化の極北で科学とぎりぎりの対決をしなければならない時がきっとやってくるだろうし、それは人間存在の根本につながる深い問題を僕らに提示してやまないだろう。〉
 ただし少し注釈がいる。このテーゼ、「反原発」あるいは「脱原発」などいう、ただの大雑把な、蒙昧を「誇る」だけの政治や倫理の論理や運動が登場するなどと、予想し、展望したものでは(まったく)ない。
 わたしは、吉本が二〇代の半ばで、すでに「幻想論」の科学と技術、すなわち『言語にとって美とは何か』『共同現象論』『心的現象論』三部作を書く根本テーゼを獲得していたことに、心を動かされた。(科学と技術について、次号に続く。)
 2 日記のことを忘れたまま、ひさしぶりに街に出た。和田由美さんと、「福長」でおちあい、軽ーくつまんで呑んで、職人(マスター)の江川さんに拙著『福沢諭吉の事件簿』ⅠⅡⅢを買ってもらい、機嫌良く店を出て、高屋敷へ。8時過ぎまでカラオケに興じ、きらくへ。
 車で迎えに来てもらった規子さんから、「今日、日記は?」と聞かれ、口あんぐり。部屋に戻って、日記を書く気などまるでなく、ケセラセラで、就寝。たくさん飲んだはずだったが、二日酔いはまるで無し(?)。
 昨日も今日も、断続的にしとしと雨が落ちている。
ベランダ前の庭は、夏のはじめ、雑草で覆われていたが、鎌を購入してもらい、何度か刈った。美しくはならない。ただ母が植えて、煎じて飲んでいたゲンノショウコが一面を覆っていたが、多少はすがすがしくなった。鉢植えの小茄子も終わりを迎えた。おいしいぬか漬けの種の一役を演じてくれた。