読書日々 1111

◆221007 読書日々 1111 『明暗』(中)
 次は『文学論』の核心である。
 《言語の能力(狭くいえば文章の力)はこの無限の意識連鎖のうちをここかしこと意識的に、あるいは無意識的に辿り歩きて吾人思想の伝導器となるにあり。すなはち吾人の心の曲線の絶へざる流波をこれに相当する記号にて書き改めるにあらずして、この長き波の一部分を断片的に縫い拾ふものといふが適当なるべし。》(162)
 これを極大化したのが、プルースト『失われた時を求めて』の冒頭で、紅茶に浸したマドレーヌの味に触発された瞬間、かつて味わった幸福感をともなった記憶と印象が次から次に甦ってくるのだ。
 漱石の文学論は、漱石の文学識とも、その小説ともほとんど関係を持たない「科学」の衣裳をまとったものだという通説がある。まったくそんなことはない。どうしてか。
2 『明暗』ーー「意識の流れ」の文学
 『明暗』(1916年)は漱石最晩年の作品で、未完であり、遺作である。その作品が「意識の流れ」の小説に属する、極めて実験的な作品であり、直接には「意識の流れ」の文学派の先駆者であるヘンリー・ジェイムズ『黄金の盃』(1904年)の影響を色濃く受けているとしばしば指摘されている。……
 どうです。漱石の『明暗』を『文学論』(文学の科学)をベースに評する意味が明らかになるのではないだろうか。漱石の文学識は、留学時における文学研究を通じて、はじめて世界文学と肩を並べるところまで飛躍することができたと見るべきだろう。
 これはわたしの推論の結果ではない。飛ヶ谷美穂子『漱石の源泉 創造への階梯』(慶應義塾大学出版会 2002年)というすぐれた比較文学研究があればこそだ。飛ヶ谷の研究成果を要約しよう。
 1 『文学論』で『黄金の盃』に言及して、ヘンリー・ジェイムズは、主人公アメリーゴ公爵がかつての恋人シャーロット・スタントと再会する印象的場面の「一瞬を写すに殆ど千字余を費やしたり。」と記している。飛ヶ谷は「ここでシャーロットの姿がアメリーゴの眼に映じてから彼女が口を開くまでの瞬間を、まるで高速度撮影された映像のように、驚くべき精細さをもって描き出している。」と書く。
 2 飛ヶ谷は、二作品の登場人物の相対関係図を示し、二作品のプロットを、共通する部分を中心に詳しく対照・引証している。(これだけでも、両作品の影響関係はただものでないことが判然とする。)
 二作品は共通しているだけではない。『黄金の盃』の登場人物もプロットも単純で、哲学性に富んだ独自の世界を構築しているのに対し、『明暗』のそれは複雑で各人が独特の存在感を持ち、その作品世界に奥行きと広がりを与えており、現実的な社会のなかに人間模様を描こうとしているため娯楽性を備えた作品になっている。
 3 《両作品を読み比べると、それぞれの作品が与える印象はまったく異なるといっていい。『黄金の盃』から「人工的インスピレーション」を得たとしても、漱石が『明暗』に描いたのは、あくまでも自らの目と心で捕らえた日本の自然と社会と人間であった。漱石はジェイムズを模倣したのではなく、ジェイムズを媒介として、彼自身のなかに内在していたなにものかを再認識し、新たな形と声を与えたのである。》
 《漱石は『明暗』を執筆した大正五(一九一六)年の時点で、二十世紀文学を代表するこれらの作家たち〔ジョゼフ・コンラッド、ジョイス、ヴァージニア・ウルフ、グレアム・グリーン等〕と同じ地平に到達していたのであった。》(続く)

*昨日、札南10期の同期会があった。9組は5人出席。飲んで酔った。タダそれだけの存在になった、自念する(?)。でも楽しかったね。