読書日々 1116

◆221111 読書日々 1116  猫またぎ
 犬は苦手でなかったが、猫は好きではなかった。父・母の実家にも、犬はいたが、猫はいなかった。
 1 戦後すぐ(10年間)は、大食糧難の時代だった。団塊の世代はおそらく記憶にないだろう。
 ただし、魚とりわけニシンやホッケは豊魚の時代で、ホッケは独特の臭いもあって、煮る焼くにかかわらず、「猫また(跨)ぎ」といわれ、特に道民には敬遠された。昨今のように、ホッケの開きも煮物も、大型のは高級魚として珍重されるのを見ても、私は敬遠する。
 実家の祖母は、そのホッケの煮込みを、きれいに皮を削ぎ、骨に湯を通してあるやなしの「身」をほぐし、湯とともにそそり、最後に薪ストーブの上で骨を焼き切り、もぐもぐと噛み砕いて、「あーあーうまかった」、と呟き、膳から立ち上がった。それはこどものわたしには壮大な嫌みに聞えた。(このときの祖母は、とてつもない老婆に見えたが、また50そこそこではなかったろうか?)
 だが「犬も歩けば」同様、「猫またぎ」も、「魚の好きな猫でさえもまたいで通り越す。」とともに、「猫が残りを食う余地のないほどきれいに魚を食べること。また、それほど美味な魚。」という両義の意味を持つ。まさに、蓼食う虫も好き好きである。
 2 開高健「日本三文オペラ」を読んで、東京ではなく、京都でもない、大阪(の大学)に行こう、九州は遠すぎる、と決心した。ところがその開高である。耽溺するほど好きになると、(などというと大袈裟だが、ま「作品」だけのことだから、)反面、その公的な発言や私的な惑溺は、気になるというより、洒落臭くなる。ベ平連やナチュラリストの「底意」が透けて見えて気になる。好きは嫌いの見本のようにだ。この人のグルメは、ただの大食いあるいはひもじさの体験の裏返し、と確信できるようにだ。高いもの、稀少なもの好きである。浪速っ子の痩せ我慢とは違うんじゃないの!?、と思えるのだ。
 そんななかで、谷沢永一の著作を偶然読んだ。この人左翼経験がある。でも、まわりに大阪左翼とでもよぶべき、「良心」=変人レフトがたくさんいる。私は変人にはなりたくない。きちんとマルクス=レーニン主義を身につけ、突破したい。そう思えた。これも「猫またぎ」そのものか?
 否、一度とことん惚れないと、そこから突破できない。ま、突破しなくてもいいもの、出来ないものもたくさんある。それに、自分の力の限界も、どうしようもなく感じてしまう。これも猫またぎの一種だろう。
 3 私も物書きの端くれである。やはり誰も書いたことのない「主著」を持ちたい。ならば持とうと思えた。65歳の時で、『人生の哲学』(海竜社 この会社も廃業した)を書きあげたときだ。定年まで5年、さらに5年足して、『日本人の哲学』を書きあげようと目算を立てた。全5巻全10部の巨編(!?)である。「犬棒」と「猫跨ぎ」で行こうと思うほかなかった。つまりは「思うが儘」である。何か、「必死」(必殺!)であった。処女作以来、はじめて、注文でないものに挑戦する気組が出来た。
 ところが可笑しいもので、時限通り、目算通りに仕上げることが出来たのに、まだまだ「時間」が余ってしまっていることだ。しかも、「山を下りて」すでに4年目である。コロナ禍で3年経とうとしている。それなりに細々と仕事をしている、というか、するほかにない。
 それではじめたのが、デジタル著作集(全集)の編纂だ。時間潰しでもある。しかし、この潰しが、貴重に思える。なによりもいいのは、毎日のノルマがあることだ。相手は、自分の書いたものだ。まったくの無縁・未知(fremt)なものではない。
 4 自分との「対話」である。それが哲学の「要」だ。ソクラテス(プラトン)のディアレクティーク=弁証術であり、自問自答である。ま、目が霞む前に、頭が困難になる。腰も足もしびれる。でも、やはり楽しい。
 それに、コロナ禍にも出会えた。第一次世界大戦後以来の、世界大のインフルエンザ旋風だ。エッ、「大災禍」じゃないか、と思えるだろう。犬棒であり、猫跨ぎでもある。貴重な「遭遇」なのだ。歴史に貴重なものを残す。すでに残している。