◆230317 読書日々 1134 まだ仕事が残っている?
雪が消えた。例年よりはるかに早い。昨日は、南風が強かった。中川医院に向かった。診断・投薬を受けるためだが、500m、老人には堪える、正面から衣服を剥ぎ取る態の烈風だった。ただし、帰りは楽ちん。正月からちょっと体調がまずかったのに、診断(血圧)もokだった。
1 「デジタル私家版著作集」は私の念願だった。たくさん書いてきたが、散逸に任すのは、研究し、書くことをこととする道を選んだものとして、口惜しかった。
その準備の一つとして、私の書いたもの(可能なかぎり「すべて」)をきちんとした形で残しておくために、個人事務所を開いた。社長が妻(規子)で、北二一条、北大北端と踵を接する古マンションの一室を買い取り、常勤の私設助手を雇った。主たる仕事は、著作のデジタル化だった。いま考えると、無謀(大胆)な試みだったと思う。
2 『吉本隆明論』『天皇論』(ともに三一書房)を書き、身も心も疲労の極を超えたと思えたのち、気分転換のため、パタパタとワープロではじめて書いた「原稿」を出版社に送った。はじめ潮出版の背戸さん宛だったが、数ヶ月返事がなかったので、あらためて青弓社の矢野さん送った。すぐに「出す」という返事を戴いた。『大学教授になる方法』(青弓社 1991)で、幸運なことに、考えてもいなかったほどのベストセラーになった。それから出版バブルがはじまった。私もその一員になった。「本物」のバブルがはじけた後で、福島、阿達さんを介したPHPとの関係がはじまった。私の「作家」生活が本格始動した「瞬間」だった。90年代、身の置き場もないほどの忙しさだった。
3 2000年、同僚(書誌学)の長谷部宗吉編『型録(かたろぐ)鷲田小彌太』(鷲田研究所 2000 128頁)を出すことが出来た。著作目録である。4人目の助手、井上さんの登場によって、はじめて「研究所」の体裁(内容)が整った。ただし、私が研究所に向かうのは、稀の稀で、長沼の加賀団体の自宅で、読み書きするのがルールだった。もちろん大学で講義(週2回)があるとき、夜のススキノ通いをほとんど欠かすことはなかったが。
こんな私を見て、飲み友だちは、いつ書くの? ゴーストライターがいるの? と聴かれることしばしばだった。もっとも、特定の「作家」にかぎって、わたしがゴーストのような仕事をすることはあったが。
4 わたしが、定年退職したのは、2012年3月だった。その10年前、定年後「なにをするか」を決めた。
1980年代、『昭和思想史60年』、『吉本隆明論』、『天皇論』(すべて三一書房)を書くことができた。
1990年代、『現代思想論』(潮出版)、を書いた。
2000年代、『人生の哲学』(海竜社)を書いた。「幸福論」である。
2010年代、『日本人の哲学』(言視舎 全5巻全10部)を書こう。これを書くことが出来れば、私の作家・研究生活は完遂できる。そう思えた。小西甚一(先生)『日本文藝史』(講談社 全五冊)の哲学版を目指した。
2015年計画を完遂することが出来た。心身共にもうろうとしていたが、まだ人生は残されていると思えた。
それで、『福沢諭吉の事件簿』(三冊)、『三宅雪嶺 異例の哲学』(ともに言視舎)に挑戦し、なんとか、やりおおせた。まだ立っている。
それにしても欲張りだ。時間が許すかぎり、著作集20巻(各巻、平均1000枚)、補遺集3巻の編集・校正を終え、いよいよ最後の「書物の宇宙」(書評全集)に取りかかっている。これがもっとも難事だと思えるが、焦る必要はない……。