◆230310 読書日々 1133 弥生三月
3月は、季節が変わるだけでなく、人生行路の行き先が変わる、そんな月だ。私の「行路」もそうだった。
1 大学入試があり、希望校に二度落ちた。これは誰に文句の付けようもない、「みんなおいらは悪いのさ」で、人生最初の蹉跌だった。2度とも、中の島の発表場から、下宿先にまでどうやって戻ったのか、皆目覚えていない。ま、「結果」は自業自得だったことに納得せざるをえなかったが、入学するまで2年間、実家に帰ることは出来なかった。
フォーシーズン(4季)というが、3月は特別な月だ。
第1に、誕生日が3月だった。戦後すぐは、学校の出席簿が誕生日順で、私は佐々木君と同じ日だったが、一番最後であった。ちなみに誕生日は(もちろんずっと後から知ったことだが)吉永小百合と同じだった。
第2に、結婚式を1970年3月に挙げた。定職がなく、大阪経・工・府大等で、非常勤講師を掛け持ちでしていたが、3月は長期休暇中であった。この月は、研究のかきいれ時でもあったが、大学等での政治運動の「休眠」中でもあった。
第3に、1975年、はじめて定職を得て、三重の津市立短大の常勤講師(法哲学)に採用された。ちょうど私の最初の著書『ヘーゲル「法哲学」研究序論』(新泉社)が出た月だった。当時、著作はまだ活版(組み版)印刷で、原稿が仕上がって出版まで、はやくて半年~普通1年かかった。この本がとにもかくにも、飯の種の最初の本になり、幸運にも類書が少なかったのか、3刷りになり、著作料をもらった。
第4に、三重に8年、伊賀上野の伊賀神戸の団地(立て売り)に、夢のような「壺中の天地」の空気を吸ったが、1983年3月、札幌大学に職を求め、1960年3月から1983年3月まで過ごした関西からお別れした。長かったが、私は半ば関西人になったのではなかったか、と思えた。
第5に、札幌に戻って、家郷は一変していたことに痛感。しかし、43になってはじめて、自分の給料で家族5人を養うことができる、そういう基盤を得た。このご、ボランティアは数多くしたが、「書くこと」以外で収入を得る必要はなくなった。世に中、ときにススキノは「バブル景気」で沸きがえりつつあったが、私にはまったく無縁であった。……
2 2002年3月、70歳で定年になった。教職39年である。やるべき事があった。2005年に心決めし、2012年書きはじめ、言視舎から『日本人の哲学』(全三巻10部 言視舎』)を、これよりという体裁はありえないと思える形で2015年完成することが出来、精も根も尽き果て、「幕は下りた」、と追記せざるをえなかった。
とはいえ、足は萎え、心が結ぼれたままだった。が、春になり夏が過ぎると、机の前にいる自分を発見する。「心機一転」という言葉はあるが、「駄馬」を鞭打つという心意であった。目も耳も、手も足も、油が切れた状態であった。
だが、「メモ」がパソコンの中に残っている。発起して、運転免許証を捨て、長沼から地元(厚別)に戻り、1室に籠もるようにして、時代小説『福沢諭吉の事件簿』(全3冊)それに最後の最後と思えた『三宅雪嶺 異例の哲学』を2021年3月に「擱筆」することが出来た。これで「おわり」と思えたが、やることはまだあるのですね。ま、本筋は、自分の書いたものを「校正」するという残務整理。
これ実に厄介だが、面白い。まさに「残務整理」も人生の一大事業、と実感しています。