読書日々 640

..◆131004 読書日々 640
日本の憲法学は「学問」ではない。……年のせいにはしたくないが
 めっきり秋らしくなった。というと、また同じ台詞からはじまることになる。でも身にしみるように「寒さ」が伝わってくる。つい最近まで大の字になって床に寝そべっていたのに、自然と体が丸くなる。でも気持ちがいい。暑さもいいが、秋の日々はじつによろしい。
 「日本人の哲学3」の『政治の哲学』を現代から明治維新までようやく書き終わった。150枚強、予定どおりか。
 明治憲法起草者の井上毅(こわし)『憲法義解』(伊藤博文名義)と金子堅太郎『政治論略』はたいした本だ。2冊とも薄い本で、いまでは入手困難だ。日本では社会契約論と国民主権論、そして天賦「平等論」が、明治期で(戦後日本期でも)跳梁跋扈した。ひじょうに平板単純な論理だからだ。井上も金子もこれに敢然と戦いを挑んでいる。ルソーとその教説をかかげたフランス革命にまっ正面から戦いを挑んだのは、エドマンド・バークである。金子の「論略」は日本最初(?)のバーク『フランス革命の省察』の詳細な紹介である。この本を読んで井上が金子を伊藤博文の秘書官に推挙した。金子はのちに、ハーバード大で机を同じくしたルーズベルト大統領に日露戦争で米国が日本を援助する承諾をとりつける役目を見事果たし、救国者となった。その金子が、1942年90歳まで長生きしたため、「天皇機関説」や「統帥権干犯」の問題で、政府や軍に「都合」のいい証言を与え、日本を日米開戦へと招く亡国者の一人となった。
 わたしの知る限り憲法学者のほとんどは、政治学者でもある中川八洋さんを除いて、明治憲法を天皇主権論とみなしている。国民主権か君主主権かの対立項で、明治憲法を論じている。まったく間違っている。国民にも君主にも主権などない。(ましてや「地方主権」などというのは論外で、地方自治・自立でいいじゃないか。)これがバークの主張である。明治憲法では、国民はもちろん「大権」をもつとされる天皇でさえ、政治的には「憲法」内存在である。天皇を不可侵の存在とするのは、政治に直接関与せず「無答責」(責任を問われない)であるからだ。
 こういうことは日本の政治史=歴史を観察すれば、一目瞭然だが、直線的に西欧化、文明開化を叫ぶものの目には見えてこない。日本は「建国」以来天皇を戴く政体である。これは何人といえども否定できない。憲法問題で伊藤と争った大隈はもとより、福沢諭吉や「アジアのルソー」といわれた中江兆民でさえそうだ。「一君万民」「君民共治」これが明治維新の大義であった。皇統維持、それが日本の「憲法」の基本的な部分で、これを失えば日本は歴史を失うという体のものだったのだ。
 じゃあ、アメリカの憲法はどうか、建国時に憲法ができたじゃないか。歴史の基幹部分なんて存在しないじゃないか。USA共和国の憲法の「精神」(核心部分)はイギリス憲法を引き継いでいる。「君主」のいないイギリス憲法=建国以来の歴史遺産=賜物を基幹とする。「法の支配」である。「法の支配」というのは「法治主義」(法治国家)という意味に限定されない。国王も官吏も神の法、自然の法、その国の慣習法、いうところのコモンローに従って統治すべきであるという意味だ。「憲法」はこの「法」を基幹部分としてもつ。それを無視して「憲法」をだれであれ「創造」することはできないし、創造したらとんでもないことになる。国亡にいたる。これはフランス革命やロシア革命が歴史的に証明したことではないだろうか。「憲法」の支配を実現するためには、三権分立(セパレーション)が必要で、議会、内閣(大統領府)、司法がそれぞれ暴走することを防ぐブレーキが必要だ。イギリスの、アメリカの政治がそうなっている。
 日本では、戦前近衛内閣のとき、内閣が暴走して、議会を制圧し、「天皇」の意志をないがしろにし、したがって日本の国体=「憲法」を無視し、国家社会主義体制を敷き、国と国民を滅亡の淵にたたきこんだ。この経験を忘れない方がいい。
 などとつい書き足りなかったことを愚痴のように記してしまった。年のせいか。