読書日々 1617 ひばりが丘団地 

◆読書日々 231103 1617 ひばりが丘団地
 風が強い。例年なら、「木枯らし」が吹く季節だが、なまあたたかい。ひらかなで記したいのだから、夏の暑さの名残だろうか。といっても、外に出るのは、生の空気を吸い、空を仰ぐための、一休止に思える。といっても部屋に籠もるのが嫌いではない。というか「常態」である。
 1 7chの「アドマチック天国」をよく見る。東京のいまの街並みを、寸劇風に見ることができることにもよる。10/21は、「保谷」であった。先に「田無」が放映されたので、保谷もという要望があったそうだ。この両市、2001年合併し、「西東京」市になったとき、なんという無粋で、誇りのない「市名」になったものか、とまず感じた。両市には、なじみの深い人が住んでいたこともあった。
 一人は、栗原祐先生で、『カール・マルクス その生涯の歴史 フランツ・メーリング』(大月書店 1953)等の訳業を持つ、元大阪市大教授である。わたしの恩師、阪大文学部(倫理学)教授相原信作(1904年9月24日 – 1996)先生の大学時代の級友で、お二人がお会いする機会をつくったとき、相原先生から、はじめて「ご苦労さまでした」というお褒め(?)の言葉を戴いた。栗原先生には、わたしの初めての単行本、プレハーノフ『マルクス主義の根本問題』(重訳 福村出版 1974)を訳出したとき、多大の助力をいただいた。そんな縁もあって、田園の中にある保谷市の退職後の自宅を尋ねたことがあった。家中本だらけで、庭にもプレハブの書庫があった。すでに先生の没後が、心配される状態であった。(ま、現在のわたしも笑ってはおられないが。)
 そして田無だ。ここには義父加藤賢治(わたしの中学時代の地理の先生)の拓殖大時代の親友、藤野順さんの『放浪読書学』(山手書房 1979)を書評した機縁で、田無のお宅に何度かお邪魔した。ここも存分に田舎であった。藤野さんは、朝日新聞退職後、文筆業に転身、数々の著作を遺された。伊賀の拙宅にも尋ねられ、車ではあったが、司馬遼太郎『梟の城』がはじまる「御伽峠」を訪れたことも懐かしい。
 2 ところで1959年、田無に造成された「ひばりが丘団地」(日本住宅公団)である。「田無が都会」に、保谷が「田園の残る町」に変貌する起因だ。だが、いいたいのは、「ひばりが丘団地」は、田無がはじめてではない、ということだ。
 札幌市が、1950年代末、高度成長期を控えたこともあって、人口急増中、公団住宅建設候補地を探していた。厚別の旭町にあった、国鉄所有の錬成農場(9万ヘクタール)が注目され、同じ「ひばりが丘団地」(札幌市営住宅公団)が産声を上げた。1959年から暫時、入居がはじまり、青葉町、もみじ台、と広がり、新札幌(副都心)へと広がっていった。地下鉄が通り、千歳線が拡幅され、隣町ににファイターズの球場が新設された。
 わたしの生まれ育った厚別、かつては五千人に満たなかった農村が、人口12万を擁する厚別区になる。まさに「新札幌」になったわけだ。わたしの住む「実家」の周りも、大小のマンションが建ち並び、コンビにも数軒あり、散歩道にも困らない。わたしもマンションの一角に住んでいる。
 ま、わたしはマンション生活が嫌いではない。「老人」には至便である。鉄道が2線、地下鉄1線、循環バスもある。わたしは77で自動車免許を返上した理由でもある。でも、ま、ススキノや新札幌の飲み屋街にも、ここ数年、年に1~2回に留まっている。82だから、当然といえば当然で、五体満足とはいえないが、歳相応の働きはどうやらできる。酒も飲めるし、実際、存分に呑んでいる。年に1~2冊、単行本を出すことも出来ている。なんの不満があろうか?
 3 新婚の、1970年代の初めだ。帰宅したが、共働きの妻は寝ているのか、すでに電灯は消えている。まずことに鍵を忘れて出た。どんどん叩くと、アパートの住人に迷惑だ。もっと悪いことに部屋の電話番号がわからない。それで、実家に電話をして、聴くはめに陥る。実家の電話番号だけは忘れていない。実家の住所はなんども変わった。しかし、生れたときの所番地は忘れない。現住所はしばしば忘れる。マズイが、仕方ない。……