◆231117 読書日々 1619 司馬遼太郎と岡田英弘
朝9時というのに、薄暗い。遠くで(冬の)雷(稲妻)が鳴っている(?)。終日雨ということだが、雪に変わるかも。こうやって、わたしも日記に天候具合をまず記すのは、日本人の「気質」によるのだろうか。ま、小学生以来の癖にしかすぎないが。
1 何かに急かされるように、司馬遼太郎の最後の長編『箱根の坂』と『韃靼疾風録』を、続けて一気に読んだ。ともに二回目だが、「最後」というにふさわしい作品だった。「ノモンハン事件」を素材にしたら、こんなに見事な「最後」にはならなかった、と確言できる。
司馬作品への本格的な「旅」は、「通例」に添って、最初の長編小説『梟の城』からはじまった。ちょうど私が伊賀上野に居を移した時期でもある。伊賀と甲賀の境界点に、葛籠重蔵が這い上る御伽峠があった。1975年のことだから、およそ半世紀前になる。といっても、司馬さんの小説は学生時代から周辺にいた左翼学生たちとともに、盗み見するように読んでいた。
2 晩年の梅棹忠夫さんが、なんの折りであったか、司馬さんは『韃靼疾風録』という奇妙な小説を、どうやって書くことが出来たのか、とつぶやいたことがある。わたしに尋ねたようであったが、まったくの自問であったか、いまはよく思い出せない。司馬さんの「史料」漁りに驚き、それを作品にする力を驚嘆していたのだから、その創作力に対して、何か魔法のような気がする、とでもいいたいようであった。ま、梅棹さんの「小」から「大」をひねり出す創作力も尋常ではなかったが。
その梅棹さんの「先生」は二人いる。一人は今西錦司、「日本サル学」の泰斗で、動物誌=進化論研究者だ。もう一人は支那史学の内藤湖南で、この人、一筋縄ではゆかない。梅棹さんは、今西と内藤の遺伝子を二つながら受け継いだが、「知=技術」を押し通したひとだ。そして、司馬さんもまた、知=技術の人であった。
3 『箱根の坂』は、内藤湖南の「応仁の乱」で日本史は分断される、というテーゼ(定律)のもとに、物語は展開される。主人公は北条早雲で、ま、多少漫画っぽくなるが、信長も、秀吉、家康も、早雲の「嫡子」ということになる。家康が「天下平定」を成就するのは、『箱根の坂』に「予定」されているというか、司馬も、私たちもすでに既知のことである。問題は、その過程の論理を「創作」できるかどうかだ。
4 『疾風韃靼録』は、司馬さんの文字どおり最後の「小説」である。この作品を書かずには「死ねない」というわけではなかったろうが、「物書き」司馬遼太郎が、おのれ自身を主人公に据えて書いた「私小説」である、と強く感じ取ることが出来た。この小説は、内藤湖南、梅棹忠夫、宮崎市定、そして一世代下の岡田英弘というアジア史研究者と「深いところ」でつながっていることが分る。特に岡田英弘の、チャイナ史、モンゴル史、満洲史研究を直接参照していたかどうかはわからないが、「異端」の臭いをもっとも強く漂わせていた岡田の論を「注視」していなかった、とはとてものこと思えない。
5 『韃靼疾風録』は、明から清(大清帝国)への転位の必然性を説き起こす「大説」である。岡田の世界史の「誕生」は、モンゴル史にはじまり、大清帝国へとつながる世界帝国史である。ちなみに、モンゴル帝国の「征服」からわずかに逃れた、西欧と日本が、「近代」への歩みを進めることが出来た、というのが、梅棹の世界歴史観だ。梅棹さんが、司馬最後の長編作品に、独特の愛惜を感じた理由かもしれない。
それにしても、『箱根の坂』も『疾風韃靼録』も読み応えある。というか、眼が、腰の老化が一気に進んだように思える。とにもかくにも、史観で小説を読む愚を知りつつ、史観なしで小説を、とりわけ時代小説を読む「愚」は避けたい、というのがわたしの避けがたい「愚」である。