読書日々 1623 世界系・司馬遼太郎(1)

◆231222 読書日々 1623 世界系・司馬遼太郎(1)
 1 滑る雪道を、JR厚別駅まで歩く。急げない、急がない。案の定、4時36分発には遅れ、47分発は混んでいた。札幌駅、外人旅行客が、大きな荷物を押して、タクシー乗り場を右往左往している。ようよう、中継地のタパスに着いたが、予定よりかなり遅れていた。1年ぶり。ビールを2杯飲んで、ちょっと気力を高め、由美、美香さんの待つ近くの約束の店に急ぐ。といっても、捗らない。案の定、店の前に立ったとき、携帯が鳴り出した。……、珍味が並び、銘酒が出る。高級居酒屋か? まずは、新刊書を手渡す。こういう珍味、銘酒のセットは苦手だが、やはり(高い)酒は美味い。相当飲む。店を出て、昔、出入りしたと思える雑居ビル、X階のカラオケ屋、ここは未知、拉致同然。先客あり。由美も美香も唱う。わたしにも唱えという。陽水の「からたちの花」を唱った。「からたちの棘は痛いよ、痛い痛い棘だよ。……」壮絶なというか、葬列の歌だ。これを朗々と美しく唱う人がいたが、わたし同様に生きているかな。もっとも、10ほど上だったと思えたが。名前は、憶えなかった。
 ま、わたしの蛮歌を聴いて、先客は帰っていった。……
 外に出て、息を吸い込んだが、狸小路のざわめきは聞えなかった。タクシーを拾い、ごちそうさんを言ったか、言わなかったか、……。居心地の良い運転手さん。……車の音がするたびに、外に出たという規子さんを後に、無事、就寝。こうして今年の年末も終わるのか!?
 2 世界に一番近い司馬が、世界から一番遠い!?(上)
 *中外日報 連載 24

 私事に及ぶが、人の縁の不思議さは、予想を超えている。
 一九六〇年、一八歳、私が大阪にはじめてやってきて、開高健描くところの『日本三文オペラ』の舞台となった陸軍造兵廠跡の杉山「鉱山」の鉄骨残骸を見ての感触がなお瞼の底に残っている。
 一九七五年、はじめて定職をえて住んだ伊賀上野で、司馬遼太郎の出世作『梟の城』の幕開きの場所、御斎(おとぎ)峠を足下にしたときの静かな驚きが甦る。眼下に葛籠重蔵が赤土を踏んで現れたのだ。
 一九七七年、東京からの帰り、手にした谷沢永一の処女エッセイ集『読書人の立場』を読んで精神の背骨が折れるほどの痛棒を食らった。その時、谷沢こそ開高の無二の文学親友であり、司馬文学の「発見者」であるらしいことを知った。
 一九八〇年代に入って、未知の谷沢がド素人の私に物書く道を用意してくれた。『司馬遼太郎。人間の大学』などさえもものしてしまったのである。そして一九九八年、『梟の城』(原題「梟のいる都城」)が連載された「中外日報」の編集者に、札幌はススキノの場末で偶然に会って、この連載の打診をされたというわけだ。
 司馬遼太郎(1923-96)は典型的な関西人である。大阪に一番密着して生きていたが、京都山城にも奈良大和にも兵庫播磨にも心と身を寄せていた。東京、あるいは関東からいちばん遠い生き方をしていたのが司馬さんではなかったろうか。
 その司馬さんが「世界」にいちばん近い人であった。中国、朝鮮、ベトナム、台湾、モンゴルばかりか、アメリカ、ロシア、イギリス、アイルランド、バスク等を歩き、情と理を込めてその国と国人の歴史と現在を記した。司馬さんの目通った世界は、私たちの理解を一変させた。
 ところが、『中央公論』九九年八月号の国際シンポジュウム「新たな知的開国をめざして」でいみじくも山崎正和が冒頭に述べるごとく、日本人と日本文化を三〇年にわたって書きついできて、日本で広く受け入れられた司馬遼太郎が、まったく世界では無視されているありさまなのだ。
 ところで、司馬さんの文学上の最大の功績は、「小説の定義」を変えたことだ。小説に定義を与えたのが、坪内逍遙で、小説とは第一に人情を、ついで世態風俗を描くことだ、と記した。これ、世界最初の定義である。司馬さんは、小説は何をどのように書いてもよい、と述べ、それをどこまでも実践した。これも世界最初。ただし、こう明記したのは谷沢永一の発見である。
 最初、従来の小説になれた私たちにとって、「余談だが」と突然著者がぬっと小説の世界に登場するのに、ずいぶん驚いたし、奇妙な感じにもさせられた。まるで、張り扇片手の高等講談もどきじゃないのかと。でも、小説って何でもありでよろしい、と馬耳東風で司馬さんは笑い飛ばしてきた。陽気な文学でもあるのだ。