◆140815 読書日々 685
8月15日はなんの日か?
1 「一九四五年八月一五日」、この日は、あらためていわなければならないが、終戦(記念)日でも、敗戦(記念日)でもない。この日は日本政府が「ポツダム宣言受諾を表明した日」で、「降伏を申し入れた日」なのだ。したがって、日本政府は「ポツダム宣言」という「条件」のもとで、最初は三国(米英支)、受託日には蘇(ソ連)も加わった連合国に、「降伏」を表明した日である。
日本の敗戦日=降伏日は、「九月二日」アメリカ戦艦ミズリー号上で「降伏文書」の調印式式が行われたその日である。九カ国連合国・軍代表と日本全権の重光葵外相、梅津美治郞参謀総長が列席して「降伏文書にサインした日」だ。
なぜ「八月一五日」が敗戦あるいは終戦記念日となり、日本が無条件降伏した日になったのかを、あますところなく解明したのが、チリ大使等を歴任し戦時国際法研究に多くの貢献をなした色摩力夫(1928~)の名著『日本人はなぜ終戦の日付をまちがえたのか 8月15日と9月2日の間のはかりしれない断層』(黙出版、 2000.12)である。
2 戦後、わたしたち世代の両親は、戦争体験者であった。出征した父、国防婦人会で活躍した母をもつ世代で、田舎の同級生には戦死した父をもつ子がいた。
その父や母の世代に、わたしたちはアプレ(無軌道で礼儀知らずを意味する)で、民主主義(目上を尊敬しない)に染まった、心身ともに軟弱な男になる、となんども揶揄された。そんな折、まだ本当に幼かったが、ときに「戦争に負けたのは誰の責任なのか」と反問することがあった。そんな「生意気」な子を、誰も強く叱責できなかったのではなかったろうか。ま、子どものわたしは、軟弱で反省心のなさは誰なの、といったつもりなのだが。
3 小学校の時、もっとも驚かされたのは、樺太から引き上げてきたばかりの斎藤義雄先生(教頭)が、全校生徒を集めて、体操場の演壇に直立不動のまま、「君が代」を唱ったときだ。先生方も、生徒達も、呆然としてそれを眺めていた(と思う)。わたしは極度の近視だったはずが、義雄先生は滂沱の涙(こんな言葉は当時知らなかった)を流していたと思える。それから「儀式」のときには決まって君が代斉唱が行われるようになったのではなかろうか。もちろん義雄先生が先導してだ。
4 義雄先生は、極端な「規則励行」主義者で、どんな小さな規則違反でも見逃さず、わたしなどは週に一度は襟首を捕まえられて、職員室の真ん中に正座させられ、先生方全員の監視の下で、反省を強いられた。義雄先生の子に同級生の義行君がいて、義行君はよくできたので、一度も成績で勝てなかったのではなかろうか。この義雄先生、家に帰るとまさに「仏」であった。
なぜ斎藤先生のことをいま話題にするかというと、先生は「戦争」をむやみに洗い落とさず、生徒の前に登場していたように思えるからだ。わたしの父も祖父も、その世代の人たちすべてが、「戦争」を洗い落とした姿でわたしたち子どもの前に現れているように見えた。それでいて、出征したときの自慢話をよくよくしていた。そんなとき、わたしが喉の先まで声が出そうになって抑えたのは、「チャンコロを殺したの?」という質問だった。
5 父の弟は、ノモンハンでソ連軍と戦って戦死した。祖父がたくさんいる子どものなかで、戦死した光彌がいちばん親孝行だ、と何度かいったことがある。単純には「軍人恩給」を残したからだという理由だが、成人し結婚して家庭を持つと、親のことなど歯牙にもかけないように思える自分の子どもたちに対する「嫌み」としか聞こえなかった。祖父はけっして好きになれるタイプの人間のように映らなかったが、なぜか「敗残兵」のように見えた。もちろん祖父は終始威張っており、不遜だった。その性格は、父よりもわたしに強く伝わっているように思える。
6 新聞の「死亡蘭」を見るようになった。今日、桶屋賢知君が亡くなったのを知った。高校の同期生で、気前よくわたしの本を10冊以上まとめて買ってくれた最初の男だ。そのことへの感謝も込めて、哀悼の意を表したい。合掌。