読書日々 691

◆140926 読書日々 691
スーシェのポアロは「カーテン」で見納めです NHKBS3 9月29日をお忘れなく
1 新たな仕事に取りかかろうとする場合、インターバルを取りたくなる。幕間だ。今回は、クリスティのドラマで、ジュラルディン・マクイーワンのミス・マープルのボックス3巻と、ニューヨークのホームズもの「エレメンタリー」のシリーズ2を買って一気に見た。それで、目ががちがちになった。まずい。ポアロも、スーシェものはNHKBS3でいまやっているのが最終で、来週の月曜日29日、「カーテン」で幕を閉じる。
 クリスティは、「遺作」をすでに1943年に書き残した。ポアロでは「カーテン」、マープルでは「スリーピング・マーダー」である。「カーテン」は文字どおり「幕引き」だろう。
 ところが1975年、クリスマスプレゼントとして恒例の長編が出なかったので、「カーテン」は心ならずも生前中に出版されてしまった。クリスティは翌年なくなる。邦訳(中村能三・早川書房)も75年に出た。すぐに買って読んだが、あまりぱっとしなかった。
 1つは、ポアロ最後の事件である。ポアロも死ぬという設定だ。ホームズがモリアーティとライヘンバッハの滝で決闘して死ぬ(作者に殺される)という設定と同じ筋書きなのだ。モリアーティ教授を、史上最悪の悪人で、世界の犯罪の総元締めだ、とホームズは「語る」が、ホームズものではほとんど登場しない。「カーテン」も犯人設定は同じだ。2つに、人は自分の最盛期に「遺作」を残したいと思うものだ。しかし遺作は、文字どおり最後に書かれたもので、多くは死を覚悟あるいは予感して書くものだろう。逆に、作品でポアロは「最後の事件」を死を引き替えに解決しようとしている。ホームズと同じように「企図」された死なのだ。「自死」である。それもホームズより低劣なのは、「死亡」宣告されたに等しいポアロの「死」を賭した闘いは、どうしても「自然死」の変形で、「軽い」。ゲームのようだ。ま、早くホームズを消してしまいたいという作者ドイルのホームズ殺しも、投げやりだが。つまりは作品は著者の分身であるという、切迫感がないのだ。
 ただし、ポアロの「カーテン」は第二の処女作で、それ以降の作品は、ポアロの最終作「象は忘れない」(Elephants Can Remember 1972)まで、この第二の処女作に向かって遡及しているといっていいだろう。老いて、孤独で、過去の栄光が忘れ去られそうになっているポアロの最後なのだ。
 つい、101人の死を看取った拙著『理想の逝き方』(PHP文庫 2012)を取り出して読んでしまった。まだ2年半前に出たにすぎないのに、ずーっと昔に書いたように思える。でもなかなかいい(?)。ただし、この本で削除された部分(人物)がある。残念だった。3人を3回にわたって、紹介したい。
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7.2 大学恩
 哲学者の三木清は兵庫生まれで、上京し一高に進んだが、京大で西田(幾多郎)につくために関西に戻っている。こういう軌跡は新制大学(大衆大学)で学んだわたしたちにはほとんど許されなかった。新制大学の学生にとっては、大学の教師はほとんどが「あてがいぶち」であり、自ら選ぶというものではなかった。これが「幸」か「不幸」かは即決できないだろうけどもである。
相原信作 1904.9.24~96.7.6
 新制大学の大阪文学部哲学科倫理学講座で、大学院(文学研究科)博士課程を終えたのは(満期中退)、わたしが三人目である。その学部二年と大学院修士課程二年の計四年間を教わったのが、倫理学講座主任教授相原信作先生であった。先生は西田幾多郎門下の英才で、中学のとき電車の往き帰りでカント『プロレゴメナ』を原文で読んだといって、西田にたしなめられたというほどに、語学の才に恵まれていた。二年の夏、「倫理学教室に進みたい」と先生の研究室を訪ねたとき、「就職の世話はしません。それでもよろしければ」といわれた。
 その先生が演習で講読するのが、スピノザ(ラテン・仏語)、カント(ドイツ語)、ヒューム(英語)であった。わたしはラテン・フランス語はまったく盲目同然であった。ドイツ語は「きみはオランダ語もできるのだね」といわれた。わたしのドイツ語の語尾変化がおかしいがゆえである。(オランダ=ダッチ語はドイツ語の「方言」である。)「きみは最近どんな本を読んだのですか?」と聞かれたので、「ホイジンガーの『ホモ・ルーデンス』を読みました」と応えると、「ほう。やはりきみはオランダ語に堪能なのだね」といわれた。ホイジンガー(ホイジンハ)はオランダ人である。本を読むとは原書で読むことであると先生はみなしていたのである。
 演習はそのうちほとんどわたし一人になった。ときに先生が短く質問する。答えるまで先生は黙って待っている。四苦八苦の末答えると、「それで……」とくる。答えになっていないからだ。一〇〇分授業のほとんどは「それで」と沈黙で占められた。
 難関は「卒論」である。四年で卒業する人は、書けば通すというのが先生の方針だった。しかし大学院進学となると話は別である。先生はカントの『純粋理性批判』を三回読めば、テーマも書くべきこともでてくるといわれた。懸命に読んだが、二回読了を少し残して、書かねばならなくなった。ただしどういうわけか、「卒論」は誉めてくれた、と漏れ聞いて、大学院に進学できた。「修論」はすでにマルクス主義の「臭気」が漂っていたのか、断固たる調子で「鷲田は通せない。もし鷲田を通すなら、他の全部も通すべきだ」と主張されたそうだ。(先生独特の論法で、「鷲田を通さなければ、ぜんぶを通すべきではない」と先生は主張したのだ、と解説してくれた若手の先生がいたが。それでというわけなのか、)「修論」はからくも通った。からくも哲学屋として私が存在しえた遠因である。
 そこで先生との「縁」は切れた。ただいちど一九七四年、敬愛する栗原佑(メーリンク『マルクス伝』等の訳者)さんの希望で相原先生とお会いする仲介の労をとったとき、「今日はご苦労さまでした」というおほめの言葉を戴いた。
 相原先生は、わたしが最初にあった、超絶した「才」の持ち主であった。しかし同時に、先生か書かれた若きマルクスをあつかった「マルクス主義の一考察」(一九六八年)を読んだが、先生の論には鋭さも膨らみも感じ取ることはできなかった。
 それでも先生はわたしの唯一の「大学の先生」である。先生の本(翻訳)は手に入るかぎりは買っていたし、わたしが八三年郷里に戻るまでは存命なこと、甲南大学退職後は吹田で息子さんと同居されていることを知っていた。ところが二〇〇八年一月、相原先生に薫陶を受けた石垣哲二さんから、相原信作『核時代の科学と哲学』(行路社 一九九四年)が手紙と「論文および略年譜」とともに贈られた。九十歳での論文集である。一読して、教えるスタイルは変わられたが、テーマと内容は私たちの時代のものと変わっていないことに驚かされた。先生は一九九六年七月六日午前六時四十五分に自宅で亡くなられた。九十一歳、まさに長逝であった。