◆141003 読書日々 692
ヒルティ『幸福論』は平凡だが、人間本性にもとづく議論だ
10月に入って、一気に秋が深まったという感がする。わたしの仕事部屋は、夏は涼しいが、冬は寒い。暖房しても、20度以上になることは稀だ。といっても、冬がいちばん仕事がはかどる。それでついやり過ぎるし、運動不足にも陥る。体重も増える。ま、これは一種の職病業だろう。
ヒルティ『幸福論』を種に1冊書くことになっている。締め切りは11月末だから、と軽く見積もっていたが、10月がはじまって書きはじめたものの、なかなか厄介である。
哲学「会」あるいは「界」では、ヒルティは古代ローマ期のプルタルコス(『英雄伝』『モラリア』)と同じように、三流哲学、俗流哲学に格付けされている。
若いころ、少しは見栄もあったし、哲学科の先生方の指導もあって、「一流のもの=古典」を研究しなければならない、それに「体系的=原理的=論理的」な思考と論述を心掛けねばならない、それが哲学することの基本だ、と考えていた。したがって、人生論とかハウ・ツゥ(術)ものは哲学の堕落形式で、俗流哲学にすぎない。めざすことはもってのほかで、読むのさえ恥ずかしいことなのだ。こう暗黙のうちに了解していた。
だが文学を、純文学と大衆=通俗文学に区別をするのはいいが、「純」が高級で「「通俗」が低級であると評価するのが邪道なように、食事をA級グルメとB級グルメとに区別してもいいが、A=上級、B=下級とするのはまったくいただけない。わたしのように、旨いものは「居酒屋」にあるという経験を持つ者にとっては、なおさらである。
精神分析を異常心理学の臨床的=経験的思考と考えるのはいいが、これを心理学の中心においたり、人間の心の「一般科学」だなどと考えると、とんでもない迷道、邪道に入り込んでしまう。純文学や純哲は、むしろ偏した「異常」領域を扱うものだという了解が必要になる。もちろん「異常」領域の研究や認識は必要である。しかしより重要なのは「平常」・「自然」領域のことである。
ヒルティの「時間節約」術、「仕事」術、「幸福」術は今日でもそのまま通用するノーマルでナチョラルなものばかりである。わたしは『幸福論』をそれほど熱心に読んだわけではないし、その「古典=一流」志向にはうんざりだが、平凡で中庸なところに人間と世界を理解する核心がある、という考え方には大賛成である。
ヒルティやプルタルコスの人生論のよさは、自分の人生経験に裏打ちされたものだからだ。例えばヒルティの「時間術」、時間の効果的使い方だ。
(1)一週六日(一休日)、昼間、「規則正しく仕事」をする。
(2)規則正しく仕事をするに必要なのは、「定職」をもつことだ。
(3)一日の仕事の「時間配分」をする。例えば、午前四時間、午後四時間。(晩二~三時間。)
(4)準備に時間を費やさず、「すぐ」仕事に取りかかる。
(5)「細切れ時間」を利用する。「雑事」に手を抜かない。
(6)同じ仕事を続けず、適宜、仕事を変えると、疲れず、効率が上がる。
(7)スピーディに仕事をする。スピーディに仕上げられた仕事がもっともいい。
(8)どんなことでも、仮にではなく、きちんとやる。(一つ一つ仕上げてゆく。)
(9)読書は、系統立て、秩序よく、原本で。
と番号を振って、書いている。(9)以外は、ヒルティの本を読むことなくわたしが実践してきたものばかりで、まったくだれでもできる、平凡なものである。ところがほとんどは励行しない、例外事項とみなされている。
わたしの実践の基礎になったのは、受験勉強であった。大学時代も励行し続けた。それで自然と身についたのである。だから、学校にきちんと行かず、受験勉強さえしなかった人が、仕事をきちんとこなすことが難しい理由が分かる。
*『理想の逝き方』で削除された部分の2だ。
7.3 思想恩
わたしは二十六歳から三十五歳までは自他ともにマルクス主義者であった。三十五歳から十年間、マルクス主義の可能性を探りながらマルクス主義を思想的理論的にのりこえる過渡期を送った。マルクス主義の時代に直接間接に教えをいただいた先生二人を、マルクス主義を抜け出そうという時代も含めて終始その著作で教えを請うた先生一人を、ここで紹介したい。
森信成 1914.6.24~1971.7.25 マルクス主義哲学の洗礼
『よむ』(九二年五月)で「読書遍歴」の特集があった。そのとき「青春時代の一冊」としてあげた短文に、自注したことがある。
〈「青春時代の一冊」
「『史的唯物論の根本問題』森信成 青春の書である。どんなにここに書かれた内容が空疎と化したとしても、理念が人を動かした例証の書である。」
*長谷川慶太郎氏との共著『21世紀の世界をさぐるーーマルクス主義を超えて』(学研)で書いたように、私の社会主義初体験は通常より遅かった。当時、大阪市立大学の哲学教授で、教条主義の呼び名が高かった森信成にはじめてあったのは、大学院に進んでからであった。この本は、私の属する講座の主任教授相原信作先生の書棚にあって、「貸し」ていただいた〔贈られたものだから差し上げるわけにはゆかないが……といわれた〕ものである。
初読して、ただちに異様な感じに襲われた。マルクス主義の魅力もさることながら、書き手個人の人柄の癖まで手に取るように分かる気がしたのである。活字が立って現れた。森先生は、七一年に亡くなられ、師事した期間はごく少なかった。しかも、この本に書いてある内容をつぶさに検討した結果は惨めなものであった。しかし、先生の影響は、少しも消えるところがなかった。〉(『北方文芸』六二年六月号)
森先生の思考は、なぜ先生が大阪市立大学の文学部の教授で、しかも哲学を教えることが出来るのか理解できないほどに、わたしが学んでいた大学の古典中心の行き方とは異なっていた。友人の田畑稔がわたしを政治運動に引き入れたとき、すぐに森先生にお会でき、はからずも気に入られた(ようだった)が、大学の教師という型にまったくはまらない独特の魅力を持っていた。市大に毎週のように訪ね、話が盛んになると、難波に出て、梅田まで歩き、それからときに京都のお宅までお供するというように、話題は尽きなかった。
森先生の死の少し前、以下のような生硬な書評を書いた。冷や汗が出るが、ひとつの自証でもある。
〈森 信成著 『史的唯物論の根本問題――戦後日本の思想対立――』
日本代々木派の民主主義=階級協調主義への「すべりこみ」と、最近の全共闘運動等にみられるアナーキズムの蔓延のなかで本書が再版された意義は大きい。このことは、マルクス主義運動における現在の諸問題のほとんどが、敗戦直後の四、五年に出されていること、しかも、そこにおける混乱がいっこうに決着をつけられないままに現在にまでもちこされているところに、現代日本の特徴があることを考慮するときいっそう然りであるとしなければならない。また、この混乱があまりに長期にわたったため、現在の若い世代に、戦後のこの重要な時期がほとんど忘れられているとき、特に重要だとしなければならない。
本書が刊行された一九五八年は、五〇年初頭にはじまる日共の分裂と「極左冒険主義」による大きな混乱が、五五年の六全協で一応回復され、綱領論争を中心に戦後はじめて組織の内外で率直な思想闘争が展開された時期にあたる(その後すぐにふたたびなくなってしまったが)。この時期、著者は、全国にさきがけ――民科大阪支部を母体として――結成された大阪唯研(五七年)に参画し、のちに実現される日本唯研結成(五九年)を目指して、理論上、組織上の努力をおこなっていた。本書はその活動のなかから生まれた成果である。
本書がマルクス主義の発展にはたした画期的役割は、「思想上の平和共存」のムードが支配的な時期に、思想闘争の戦略目標――支配的反動思想――を初めて明確にし現代の思想闘争の核心が、唯物論の実存主義的修正主義(ニヒリズムとアナーキズムのマルクス主義への浸透)としての主体的唯物論との闘争にあり、この場合の理論的核心が、「唯物論か観念論か」という哲学の根本問題にあるとしたところにある。
前篇――思想篇は、右の思想的核心を小田切秀雄、山田宗睦の「思想上の平和共存」の批判、および、主体的唯物論が哲学、経済学および歴史学においてどのように展開されたかを具体的に示している。著者の右の見解に反対した蔵原惟人氏との論争にささげられた本書の補遺をなす二論文は、蔵原「理論」がその後の代々木派の文化政策を決定づけたものであるだけに、現在特別に重要な意味をもっている。
後篇――理論篇は、右の実存主義的修正主義が、史的唯物論および資本論解釈において、どのように現われたかを、具体的に示している。著者はここにおいて、わが国のそれがK・レヴィットの亜流として現われていることを、レヴィットの『ヴェーバーとマルクス』について示している。著者のこの指摘が正当であったことは、本誌哲学特集「日共代々木派の哲学とルカーチ・コージング哲学」にのべられているように、そのアナーキズム、生産力論、市民主義が現在そのまま古在、芝田氏とそのエピゴーネンに再現されていることによっても知られる。
本書において、レヴィット批判、蔵原批判とならんで特に重要なのは、ブルジョア民主主義による「極左冒険主義」についての自己批判を、カント的道徳主義でごまかした石母田正氏に対する批判である。著者は、これを通じて唯物論的倫理学を基礎づけている(前篇第四章、唯物論と責任の問題)。
本書は序文にものべられているようにポレミークとして展開されたものではあるが、著者はその批判にあたっていわゆる「批判」にとどまることなく、対象に即してマルクス主義の理論的原則を具体的に、積極的に展開している。その意味で、本書は単に代々木派の思想やトロツキズム批判の書であるにとどまらず、弁証法的唯物論と史的唯物論の基本課題ならびに基本カテゴリーを学ぼうとする者にとって最良の文献である。 青木書店刊、一〇〇〇円(現在は、新泉社刊)〉(『知識と労働』第二号、一九七一年五月一日)
わたしの三十五歳からの歩みは、ここで示された二十九歳の自分が解したと思った森「哲学」を克服することからはじめなければならなかった。
森先生は、七一年春から体調の悪さを訴えていた。それで、検査のため六月の暑い日、お供して大阪愛染橋病院に同行した。先生は非常に元気で、病院内でも盛んに大声で議論をされるので、再三注意をされるほどだった。体調不良は杞憂のように思えた。ところがわたしが一時帰省しているあいだに病状が急変されたのか、帰阪してみると面会謝絶であると聞かされ、七月二十五日朝にはもう亡くなられた(、と知らされた)。末期癌ということだった。茫然自失とはこのことである。およそ半年、もし先生の遺稿ノートの整理やテープ起こし・定稿化の作業がなかったら、半狂乱になっていたかもしれない。個人の死がこれほど堪えた死はなかった。
葬式を手伝い、終わって先生の「弟子」達が先生のお宅の居間に集まって思い出を語りあっているときであった。奥さんが突然起ち上がって、「森はそんないい人間じゃありません!」と叫ばれた。一同、異様な感にうたれたが、奥さんの言葉の意味はわたしには「理解」できないわけではなかった。