◆240607 読書日々 1646 KIYOさんからのメール
1 先々週、1回、この読書日々を欠落。すかさず(?)、KIYOさんからメールがあった。KOYATAは生きているのか? という文意だった。キヨさんこそ「死んだ?」のではと思う長い日々があって、逆に、ほっとさせられた。また、会える日があれば、と思えるが、わたしの方は完全に出不精になっている。外に出るのは、外気を吸いに戸外に数分出で、背伸びをするか、3~4日に1度、タバコを買いに、近所のコンビニ(2~3軒)に出向くときだけである。ま、歩くのも、1000歩前後、それでも自歩だ。が、見る人によっては、ヨレヨレかもしれない。正直、一種の死に損ないだろう。それに、自分ながらにあらがいたいこともあって、可能なかぎり、パソコンに向い、ぽつりぽつりと、次は何を書くのか、という思いに駆られているに過ぎない。ま、生き損ないというのが、正直な思いだ。
2 それにしても長く生きてきたものだ。曽祖父の彌左衞門、祖父の彌太郎、父金彌たちより長生きしている。姉二人、妹一人は、健在だが、父の兄弟姉妹、母の兄弟姉妹は、それぞれ8人だったが、すでに昨年末、最後の一人が鬼籍に入った。イトコが100人ほどいるが、存命なのは、少数になったいる(はずだ)。
もともと体だけは頑丈だったのか、大病に出会ったことはなかった。入院したのは、痔の手術の1回だけで、スペインのコンポステラに巡礼したとき、訳の分らない皮膚病に罹って、半年以上痒さに襲われ、脳内まで痒かったときも、なんとか切り抜けることが出来た。というか、書くのをやめなかった。「疾病」はそれくらいだが、その後遺症は20数年経っても、残っている。
でも、飲むのはやめていない。70で定年になり、すすきのに出ることもなくなった。出ても、2軒、やっと残った店に足を向けるだけで、全部、家のみ(部屋)飲みで、朝は、妻のデリバティブ、夜だけは、妻と食事だ。ときに、ビール1缶、あるいは清酒を少々をともにするだけ。
3 妻の父は、中学時代の先生で、48歳、漱石と同じ年でなくなった。先生、一升瓶という渾名があったほどの酒豪というのではなく酒好きだったが、ことのほか私をかわいがってくれた。
私の先生に、3人いる。加藤(義父)と相原信作(大学)、谷沢永一先生で、谷沢先生の年もすでに越してしまった。
最近、時代劇チャンネルで、『花神』の総集編を見た。この番組は、半世紀前、上野市の伊賀神戸で見て、興奮したが、村田蔵六の酒の飲み方まで真似る始末で、このころから酒所、伊賀の清酒を買って飲める「余裕」が出来たのではなかったろうか? といっても、津市立三重短大(法哲学)にはじめて定職を得たときで、給料が猛烈に安く、週4日、大阪に出て非常勤講師で稼ぐほかなく、家庭教師も辞めるわけにはいかなかった。それでも、3年目に書庫・書斎を新築して貰い、私の量産時代が始まった。そうそう、万年筆にこり出した時で、手作りの万年筆を金沢や仙台に特注し、原稿用紙を埋めていった。また、目次と概要は、筆であたうるかぎり詳しく書いて、準備を整えた。その作法は、ワープロ・パソコン時代に大きな力になった。
私のぼやきは、朝は朝星、夜は夜星、昼は梅干し嘗めながら、で、朝6時始発、夜12時終着、「なんだ坂・こんな坂」の毎日だった。
4 8年間、壺中の天、三重に腰を落ち着けると思いきや、飯島宗享先生が手を回してくれたのか、札幌大に職を得て、家郷に戻ってきた。三重短も、札幌大も、20倍以上の競争率だった。もっとも、受ける本人にとっては、合否は、つねに2倍ではあったが。ただし、三重短は友人の引きがあった。彼・岩本さんの力がなかったら、私の教師・文筆生活はなかったと思える。
何か、また湿っぽい話になったが、今日は谷川俊太郎さんのフェルメール鑑賞という素敵・的確なコメントの「再録」番組があって、再再度納得させられた。