読書日々 698

◆141114 読書日々 698
わたしはあんなにチビじゃない、フトッチョではない!
1 初雪ではないが、早朝、今年はじめて屋根が白くなって残っている。寒い。昨晩はひさしぶりにテニスを見た。ATPツアー・フィナル(年間成績ベスト8による頂上決)戦で、真夜中までだ。テニス界にもイチローや羽生が現れた。バスケはもとより、ゴルフ、サッカーにも、現れそうで現れないが、錦織の充実ぶりはどうだ。ついに世界「四強」の一角に入った。相手が不調のときにたまたま勝った、というのではない。マリーも、フェレールも絶好調であった。それを「すれすれ」のところで打ち破った。こんどの「紙一枚」の勝利は、まぐれがちを意味しない。相手も最高点に達したときに、錦織の到達点が上回った(ように見える)のだ。平凡な三塁ゴロ(に見える)が、イチローの「走力」が上回って、内野安打になるのと、形のうえではよく似ていた。ただ錦織(や羽生)はまだ若い。伸びしろもあるが、不調も、故障も襲ってくる。この点、全盛期で大リーグ入りしたイチローとは異なる。ま、いまからそんなことを危惧していてもはじまらないが。
2 また「日本人の哲学」にもどった。ぼつぼつとコンテンツを決める作業に入った。第Ⅳを後回しにして、第Ⅴに入るつもりだ。「雑知」と「哲学」の哲学をいれる。「哲学の哲学」(学校の哲学)は想定通りに書ける(と思える)。最澄以下すらすらと名前が浮かんできた。コンテ(目次)のデッサンもすぐできる。しかし「雑知の哲学」はまだだれも書いてはいないのではないだろうか。「古代ギリシア・ローマ哲学を読む」という副題にしてもいい、モンテーニューの『エセー』のようなものを書けたらと思うが、まずはむりだろうな。でも、取りあげたい過半というか、ほとんどはすでに読んできたものである。だれ(の何)をピックアップするのか、問題はここにあるように思える。「雑知」のエキスを書けたらいいな。
 「厚いが、読んだら読めた」というのがこれまで三巻出して耳にした拙著への感想だ。「的」だけは外していなかったのではないだろうか。哲学を「日常」感覚に近づけたい。ただし「不易流行」である。流行=「俗」をベースに「雅」を少しである。日常感覚だから、なにを語る場合も、「自分中心」だ。「河清」を待つではなく、まず「自分」なら何ができ、どうするでもある。
3 クリスティのパーカー・パインものの最後の2編を読んだ。よくできているというか、できすぎている。クリスティはどこか性格に「ねじれ」たところがあって、後天的なのか、持って生まれたものなのかは別として、そのねじれ具合の大小によって、ストーリーのリアリティが問われる。大きすぎると、できすぎ(不細工)になってしまう。
 クリスティの「パディントン発4時50分」をはじめて演じたのは、「夜行列車の殺人」(She said… 1961)と銘打たれた作品で、一人三役(ミスマープル約90歳、マープルの友人約90歳、死体探しに入るルーシ30代のはじめ)を演じたマーガレット・ラザフォードだろう。まことに大胆というか、省エネの演出だ。クリスティ、このラザフォードが嫌いで、彼女が「背が低くて太っている」ので、自分もそう思われているのが忌々しいと嘆いたそうだ。(そういえば、女作家=原作者は、写真でも、似顔絵でも、少しだけ美しくしなければいけないという鉄則があるそうだ。)
 たしかに、このDVDを初めて見たとき、なんでー、作者はよく許したなー、と思った。クリスティはすでに巨匠である。ところがラザフォードはどう見ても、不細工の極だ。衣装も最低。監督はポロックで、のちに『そして誰もいなくなった』を原作に「姿なき殺人者」を撮っている。だが、妻にこのDVDを見せたら、クリスティーに似ているという。わたしのように、クリスティは美しいと思ったことはないのに、ラザフォードとはまったく違うと思っていたものの目とは違う。でも納得した。クリスティーが怒ったのは、「似ている」=戯画だったからだ。自分が不細工でも、もっと不細工と似ていると思われたら、腹が立つ、これはわたしによくよくわかるね。自分にも、他人に対してもよく起こるケースだ。何度失敗したことか。*今日、夜TVで「シャーロック・ホームズ シャドウ・ゲーム」(2011)がある。わたしは見たが。