読書日々 702

◆141212 読書日々 702
寒くなった。鼻が詰まる。体調はもう一つだ。ま、愚知だが
 先週と今週、続けてカプセルホテルに泊まった。年末ホテル代がバカ高くなる。初体験ということでもあったが、やはり寝起きがよくない。けちるとまずいと思う。風邪をひかなかっただけでも幸いか。
1 田中美知太郎『時代と私』(文藝春秋 1971)を読んだ。廣松、田中、三木、西田をメインに「大学の哲学」を書くつもりだ。そのためもある。田中の処女著書は『ロゴスとイデア』(1947)だが、ずっとプラトンを論究し続けて『プラトン』全4巻をまとめ上げた。すごい。田中を読んで、プラトンをしっかり学び直せるだけでもいい。日本にはプラトンはいないが、チャイナの孔子がいる。孔子を解説した伊藤仁斎や荻生徂徠がいる。
 田中は徹底した洋学派で、福田恆存とともにリベラリストの保守派だ。若いときアナキストやコミュニストとつきあいがあり、哲学の師は波多野精一だが、独学に近い。唯一忌憚なく話せたのは三木清だそうで、『時代と私』は三木清からはじめる。テーマは三木がなぜマルクスに転向したのかということだが、結局は、わからない、で終わっている。田中の個人史(戦前)は若いときの左翼とのつきあいやナチ嫌い、ニーチェ好み(ニーチェはドイツ嫌いだった)だ。一見矛盾するようである。だが、ヘーゲルをよく勉強していた点などわかって、この平凡な半生記を納得して読み終えた。
 上記4人は、大学に籍を置いたが、いずれも「不遇」な前半生を送っている。廣松は東大に残れず、田中も西田も「選科」出で、大学にポストがなく、三木は京大に残れず法政にいき、その三木に田中が拾われるというようなコースをたどった。田中が京大に戻れたのは、敗戦の結果であり、最初から順調な学究生活を送っていたら、4人ともその大きな「大学〔スコラ〕哲学」を書きえただろうか。
 こういう無意識の疑問がわたしをとらえたのかもしれないが、けっして好みの問題ではない。まだ「哲学徒」であったとき、三木清のようなものになりたいと強く思ったことがある。わたしがコミュニストに転向した理由の哲学上の一端でもあった。尊大この上ないが、素直な感情からだった。望む学究の座につくことを断念しなければならなくなってからは、自分には哲学上の「師」というものがない、否「師」なぞ求めてはいないということに思い至った。これは痛烈な自己断念ではあったものの、なにものかになろうという念だけは失わなかったのではなかったろうか。幸運であった。
 それにしても田中には「雑知」への興味というものがほとんどないことに驚きを禁じ得ない。
2 12/11 『経済界』の支部の講演会に久しぶりで出た。講師は今井キヨシ(1935-)氏で、安倍自民は315議席を取り、アベノミクスをいっそう推し進めると予測した。第4、5の矢も準備中で、日本は政治経済も順調、アメリカ経済は順調だが政治はとんでもないスキャンダルに襲われると予言する。理由を1点に絞れば、「シェールガス革命」のおかげということになる。アメリカの政治不安は「ベンガジゲート事件」で、ウオーター事件並みの大波がオバマとヒラリーを襲うとのことだ。この人もともとは金融畑で、株屋でもある。講演の途中、この株は買ってお得だと、のたまった。ま、わたしには無縁の話だが、ユーロも、ブリックスも壁にぶち当たっており、日本だけが順風満帆だというような話は、眉につばして聞いておけばいいのかもしれないものの、いかにも自信たっぷりであった。そんなわけで、昼間から悪酔いしてしまった。それに夜、変な店に引き込まれた。まずい。
3 さあ12月も中盤である。仕事のほうは順調とはいっていない。一度調子を落とすと戻すのが難しい。それに選挙中なのに、わたしの選挙区に入れるべき候補者がいない。よりましな人もいないのだ。しかも無風である。こんなのははじめてではないだろうか。朝日や道新も半ばお手上げの様子。やれやれ。
 来週は上京する。巡礼仲間と恒例の忘年会だ。