◆150501 読書日々 722
昆虫偏愛者、養老孟司の華麗な論理
1 メィディである。新婚の1970年、友人の笹田君が紹介してくれた尼崎の小さな鉄工所に勤めたばかりの妻が、この労働者の祭典のデモ行進に参加するさまを見に行った。妊娠で会社勤めは2年間で終わったが、社長の娘さんと机を並べての仕事である。尼崎は、とくに中小零細の工場地帯は暑い。クーラーもない時代だ。真っ黒な猪名川は澱んで臭気を放つ、すさまじいばかりの汚染地帯であった。デモ隊は汗を光らせながら、ほこりっぽい道を進んでゆく。わたしが5年後、友人の岩本さんの世話でようやく定職をもつことができた、まだまだ先が見えない、貴重で過酷な中途半端な時期を、はじめて関西で暮らす妻は、よくよく乗り切ってくれたものだ。この時期になるといつも思い起こす。
対して馬追山の中腹のこの時期は、柔らかく暖かみのある風が吹き出す。薫風は初夏の風のことだが、今年の風はまさにそれだ。庭の桜が、珍しく早く、順番に3本咲き誇っている。
2 養老孟司は、わたしたちより5年先に生まれた、昆虫を偏愛する医者だ。といっても、東大の解剖学研究室(第二講座)の助手から、大学紛争の時期に助教授になり、研究室が封鎖のためめちゃくちゃにされた経験をもっている。山本義隆は東大全共闘の議長で、物理学者の卵(すでに成虫だったか?)だった。養老は「個人的体験」を希少価値と見なす人だ。昆虫キチが標本をめちゃくちゃにされたら、頭にくるだろう。解剖のデータが失われたのだ。このときの恨みは、山本に向けられるべきものではないが、のちに予備校の講師をしながら物理学史の研究書を出版し、朝日新聞の大佛賞を受賞したとき、選考委員だった養老は山本の受賞には反対しなかったものの、このときの私憤を漏らしている。
3 養老は、思想家(ものを考え書く人間)としては、独特の位置にある。
1)昆虫愛から(生まれるのは)、世界に一つとして同じ昆虫(個体=現実)はいないだ。(……ヒュームの知覚一元論) なぜか?
2)解剖学は、「死体」(もの)を扱う。生体と死体との違いは何か?「脳」が働き(機能)を失うことだ。(……「死」=「脳死」論) では脳とは何か?
3)脳とは感覚(=入力)と行動(=出力)をつなぐ(中間の)「情報処理装置」だ。この装置のなかに「意識」が生まれる。(なぜ生まれるのかは物理学的には分からない。しかしそう考えるしかない。)
したがって、意識は「自立」存在ではない。近代的な「自我」(意識)が独立して存在するなどというのはフィクション(虚構)である。(……『唯脳論』=最新の人間機械論)
4)現実は「五感」(感覚 senses)で捉まえることができるが、思想(意識)は五感で捉まえることはできず、「言葉」で捉まえられるのだ。
感覚世界は無秩序(非同一)である。秩序をもたらすのが、言葉で捉まえる意識の世界である。コミュニケーションであり、世間だ。システム(階層構造)だ。(吉本隆明がいうところの「幻想共同体」だ。) したがって、
5)「無思想」とは、「無意識」の別名である。無意識も意識であり、「世間」(共同の無意識)である。「思想」は「有思想」(言葉や論理や科学)の世界で通用するのであるが、「無思想」は人間と人間をおのずと(natural)つなぐ「秩序」(習慣・法・体制)である。
6)「日本に思想がない」(丸山真男)のではない。「『空気』の支配」(山本七平)が錯誤をもたらすのではない。「無思想人宣言」をしたから「思想」がなくなるのでもない。大宅壮一はその日その日(journal)を生きる思想、無思想という思想、空気の支配を生きるのである。
7)日本に宗教がないのではない。一神教ではないだけだ。じゃあ、多神教か。そうではない。日本の宗教は「共同の無意識」である。人類史とともにある、きわめて「正常」なものである。
養老の主著『無思想の発見』(2005)の核心部分である。頭の未整理な人には、一見雑駁で「難解」な本だが、戦後を代表する、丸山、司馬遼太郎、山本七平、小室直樹(アノミー論)を撫で切りにする妖刀である。吉本隆明や廣松渉に共鳴する近代世界観を超越する論者だ。過褒に聞こえるが、そんなことはない。
「雑知の哲学」はまだ80枚を超しただけだが、すでにして佳境に入る感がある。
*なお最新の「雑記帳」に、「恩師」3人について書いたエッセイを載せた。併読ください。