読書日々 737

◆150814 読書日々 737
わたしがヨガなどやらない理由 頭は体だ。すっきりすると、つまらない。
1 周期的に「読書」「談」や「論」がまとまって出版される。現在その高潮時のような気がするが、すでに潮は引きつつあるのかもしれない。
 この読書波のなかで、もっとも目を引くのが、渡部昇一『渡部昇一 青春の読書』(ワック 2015/5/22)だ。『Will』に連載された、600頁を超す、文字通り渡部版青春の読書の「総まとめ」である。
 渡部さんの特色は、いわゆる旧制高校の「人生とはいかなるものか」風の「青春」とは根本的に違う経路をたどって、読書の悦楽に達した、希な例に思える。渡部さんと肩を並べるといえば、谷沢永一先生しかいないのではないだろうか。ともに、ちょっと知的に気取った人なら、脇にどけてしまうような本を耽読したキャリアの持ち主だ。
 『雑書放蕩記』(新潮社 1996)と『本は私にすべてのことを教えてくれた』(PHP研究書 2004)は、読書とともにあった谷沢の「自伝」でもある。前者はその青春譜である。渡部・谷沢両先生には、『読書連弾』(1979)『読書有朋』(1981)という2冊の対談がある。それが合冊になって『読書談義』(大修館書店 1990)になっている。まだ50代に入ったか入らないかの血気盛んな時で、特別に気が合ったなかでしか話せない本と著者の「勘所」をパチーンと弾いて、飽かせない。もう谷沢先生はいなくなって4年あまり経つが、先生の著書が、読み明かしても尽きないほどわんさと残っている。
2 養老孟司の本をまとめて読んだ。ウルトラミリオンセラー『バカの壁』(2003)もようやく読んだ。実に明快な、明快すぎると思える本だ。いちばん感心したのは、オウム真理教を総括した箇所である。
 養老は、竹岡俊樹『「オウム真理教事件」完全解読』(勉誠出版 1999)の解説をもとに、見るからにインチキな教祖に学生たちが惹かれていった理由を述べている。竹岡はあの「神の手」といわれた考古学者のインチキを見破った石器分析家=考古学者である。
 神岡の考古学手法とは、教団の出版物やオウムについての本、新聞、雑誌の記事(物証)だけをもとに対象を分析してゆくやり方だ。彼は、信者や元信者の修行や「イニシエーション」についての体験談を丹念に読み込み、「彼ら(信者)の確信は、麻原が教義として述べている神秘体験を彼らがそのまま追体験できることから来ている」と述べる。つまり、麻原は、ヨガの修行をある程度きちんとやってきた、だからこそ修行によって弟子たちの身体に起こる現象について「予言」もできたし、ある種の「神秘体験」を追体験させることもできたのだ、と結論づける。自らの身体と向き合ったことのない若者にとって、麻原の「予言」は実に驚異=ワンダフルだっただろう。
 わたしも、才能ある大学院生のA君が、麻原の空中浮遊を信じて、引かず、あの吉本隆明だってオウム真理教に意義を見いだしている、と主張するに及んで、唖然としたことがある。身体を訓練すると、頭がすっきりする。からになる。
3 かなり無理して、ヨーロッパ・中東等へ巡礼の旅に出た。もっとも団体旅行である。最東のイスラエル、最西のサンチャゴ・コンポステラがいちばん印象深かった。旅は短かかったし、前知識もほとんどないままのものだった。でも、「現場」を踏んだというインプレションは強烈である。代えがたい。
 井上ひさし『ボローニャ紀行』(文春文庫 2010)を読んで、このセンスをいっそう強めた。井上ひさしの書いたものは嫌いではない。でも、ボローニアについて、善いとこ(それに比して日本の欠陥)ばかりを次から次に紡ぎ出してくるのだ。この人どういう神経をしているのだろう。そういわざるをえない。
 わたしは、イタリアは嫌いではない。あのミラノの色のない街や人が好きだ。ただしミラノは相応に金がなければ楽しくないだろうな、とは思える。ボローニアも北部の代表的な都市である。元「自由都市」で、世界最古の大学がある、ダンテの出身地でもある。人口40万人弱の、狭く恐ろしく汚い街だった。古い建物が「再建」(?)されてあるが、奈良などにはおよぶべくもない未整備だ。もっともこういう街の大学で生活したら、金がなくても楽しく暮らせるな、とは思える。つい、大阪の学生時代を思い起こしてしまった。
 そういう井上の癒えない欠点はあるが、ボローニアを知る最良の本であることはまちがいない。イタリアびいきになれば、だらしのないイタリア酔いに浸ることができるよ。