読書日々 738

◆150821 読書日々 738
わたしが愛する自著は偏愛のたまもの
1 『日本人の哲学5』(9「大学の哲学」10「雑知の哲学」)の校正(1次)を終えた。70をすぎると、何がしんどいといって、自分の書いたものを校正すること以上のものはない。それに、どんなに慎重になっても、誤植(著者の見誤り)をなくすことはできない。それでも、第1次校正を終えた。心底ホットしている。なにせ長いのだ。『寒がりやの竜馬』(250枚)のような軽量なら、必死でやれば、1日で終えることができる。ときに、朝早く起きた時などは、午前中に済ますことも可能だ。しかし『日本人の哲学5』(700枚余)になると、まるまる3日を要する。中だるみが必ずといっていいほど挟まる。えぃ、やっ、というわけにはゆかない。終えても、爽快感よりも、やれやれという徒労感が先立つ。こういう感じで生きてきた。40過ぎからで、30年間続いたことになる。ただし、充実と徒労は、別々にあるのではない。
2 自薦かつ自信の本は売れない。これがビジネスの鉄則のように思える。「わたしの愛した○×」は、つねに、偏している。偏愛が悪いというのではないが、他人には迷惑だろう。「なくて七癖」というではないか。ほとんどは偏(過剰あるいは過小)からくる。「わたしが愛するわたしの作品」が偏して当然(自然)である。
 わたしの自信作ではないが、偏愛している自著は、『欲望の哲学』(講談社 1997)だ。編集者(久保京子さん)には悪いことをしたが、予想通り売れなかった。しかし、多少ともわたしの哲学思考のエキスを披瀝できたように思う。
 自分の短い生涯を平たく眺めると、この本が、『日本人の哲学』全10部を書くべくしておかれた「序説」であると、いまにして気づかされる。装丁も川上成夫さんのモノで、申し分ないのに、売れなかった。残念感がいまにして残る。著者の責任だ。わたしはスピノザの『エチカ』を愛している。もちろんプルタルコスの『モラリア』をも愛している。この2著の「中間」を行こうというのがわたしの魂胆だった。欲張りすぎたのかもしれない。ただし、人間(社会)は「過剰の欲望」のシステムだからこそ、シンプルライフをめざすのであって、けっしてその逆ではない、といいたいのだ。
 『欲望の哲学』の前に、『哲学を知ると何が変わるか』(講談社 1994)がある。同じ編集者の注文だった。こちらは重版になり、文庫版にもなった。幸運であった。この2冊は、2つで1つと思っている。
3 竹岡俊樹『「オウム真理教事件」完全解読』(1999)が通販を通して手元にある。ぱらぱら開いたに過ぎないが、古本である。各所、かなり乱雑に傍線が引いてある。わたしも本に傍線を引く。ときに油性ペンでマークする。付箋を付け、「N.B.」(要注意)などと記したり、「×」を付したり、「おまえがアホなんや」などと落書きする。そういう古本が届いたのだ。他人の「秘密」をのぞきみするようで、あまり気持ちのいいものではない。が、しかたない。こういう本の方が安いのだ。助かる。
4 人里離れたところにいると、アマゾンは助かる。「ふる本屋本舗」などは、2日でとどく。迅速・安価が勝負らしい。新本が売れなくて当然と思えるが、著者としてはいたい。消費者と生産者の同時存在者として、著者は生きているのだから、仕方がない。もっとも三宅雪嶺の本は、苦労して集めた。総計でいうと、数十万円を軽く超える。全集がなく、新刊もほとんどないのだから致し方ない。
 ここからが苦しいいいわけになる。三宅雪嶺の評論を書こうと決意したのは、10年以上も前のことだ。ところが、福沢諭吉は「事件簿」として、3巻本で書けるめどは立ったが、三宅雪嶺は完成しそうもない。なぜか。執筆依頼がないからだ。雪嶺を書こうと発起したのは、周知の編集者が書き下ろしでどうか、という話が舞い込んだからだ。ところが書き始めてまもなく、等の編集者が退社し、ぽしゃってしまった。ようやく「純粋哲学」段階(80枚)がすぎて、途絶したままになった。ただし「雑知の哲学」で、雪嶺が新聞に隔日連載した(滿洲事変後~敗戦)膨大な「コラム」(1年分1冊として刊行)を紹介することができた。でも高い雪嶺の古本価の元はとれないだろう。(ケチな根性がここでも顔を出す。)