読書日々 978

◆200320 読書日々 978 
傍観・時代小説文壇史
 「読書日々」の校正(2刷)を続けている。いま13年1月。過ぎ去ったものといまとの「時間」感覚がおかしくなる。
 1 「傍観」とは、「袖手傍観する」(to look on with folded arms)とあるように、無責任ないしは野次馬根性で見るといういいだ。ものを考える人間として慎むべき態度といっていい。
 しかし、18世紀にイギリス経験論(ヒュームやスミス)が主張した見地、対象に無関心を装ってつまりは冷静にアプローチする態度をさす基本タームでにあるのだ。経験論の基本、「観察と実験」による認識方法が前提する態度(art)のことだ。
 ピーター・ドラッカーの「自伝」に『傍観者の時代』がある。微妙な表題だが「Adventures of a Bystander」のことだ。「第三者」の見解のことで、なんだ無責任な態度のことか、と思うだろう。その通りだがその通りでない。「当事者」の立場をゼロにして、客観的にかつ結果にとらわれずに判断する立場を貫くことである。「自分」自身についても、バイスタンダーで臨むことだ。じつに困難なことだ。だからアドベンチャーとなる。
 2 大村彦次郎(1933~2019)『時代小説盛衰記』(筑摩書房 2005)を再購入し、再読している(と先週記した)。トイレ本だから、一気に読み終えることができない。それに大部だ。しかも各項、各節、各章が興味津々なのだ。作家を語り、その家族を記し、作品を隈取り、それに編集・出版者たちを登場させるという具合にだ。文学「事業」の細やかな葛藤(アドべンチヤー)が語られる。失って惜しくなる本がある。大村の本たちだ。それにケチ性なので、大村著、どれも美本(?)であった。
 2 大村さんの作品は以下の通りだ。その全容は、私見では、(先週述べたように)伊藤整『日本文壇史』(講談社 全18巻)と対になるような「文壇」史だ。
『文壇うたかた物語』(筑摩書房 1995/ちくま文庫、2007)
『文壇栄華物語』(筑摩書房 1998/ちくま文庫、2009)
『文壇挽歌物語』(筑摩書房 2001/ちくま文庫、2011)
『ある文藝編集者の一生』(筑摩書房 2002/「文壇さきがけ物語」 ちくま文庫、2013)
『文士の生きかた』(ちくま新書 2003)
『時代小説盛衰史』(筑摩書房 2005/ちくま文庫(上・下)、2012)
『文士のいる風景』(ちくま文庫 006)
『万太郎 松太郎 正太郎-東京生まれの文人たち』(筑摩書房 2007)
『東京の文人たち』(ちくま文庫 2009)
そして『荷風 百閒 夏彦がいた-昭和文人あの日この日』(筑摩書房 2010)は未読で、先週手に入れた。
 全部、筑摩書房だ。友人の岩崎さんが、岩波、中公、筑摩、みすずが好きだ。おまえも、この四社から本を出せ、P社やG社じゃ「?!」だ、といわれる。ま、わたしが朝日や岩波で書いたの知らないからいえるのだが、中公、筑摩では単行本を出して(もらって?)いる。たしかにみすずはないね。岩波は1冊分ある。(どことはいわないが、)出したいね。
 大村さん、講談社の編集一筋だった。それが昨年亡くなっていたことに気づいていなかった。
 『日経』に
「(019年9月6日 0:13) 大村 彦次郎氏(おおむら・ひこじろう=文芸評論家、編集者)8月30日、下咽頭がんのため死去、85歳。告別式は近親者で行った。喪主は長男、彦太氏。
講談社で雑誌「小説現代」「群像」の編集長などを長く務め、作家の野坂昭如氏らのデビューに関わり、退社後は文芸評論家として活躍した。」
 谷沢永一先生が最晩年、大村『時代小説盛衰史』を大絶賛していた。別に取り立てていうこと、先生に「わたしも」と伝えたわけではなかったが、わたしとして「面目を施した」と思えた。