読書日々 979

◆200327 読書日々 979 世の中に新しきことなし
 1 NHKBS1(3/21)で織本順吉の最晩年(90~94歳)を、構成作家の娘(中村結美)が撮ったドキュメンタリ「老いてなお花となる」(全3回)を観た。「題」のとおり、世阿弥の「花」をテーマにした映像だ。
 1の焦点は(90歳)で得意のセリフ回しもままならなくなった「父」の最後と思える晴れ舞台、倉本聰脚本「やすらぎの郷」の役を受けるべきかどうか迷う中村(娘)が、倉本のところ(富良野)を訪れ、相談におよぶ。
 「老いてなお咲く時の花」、このとき倉本が世阿弥の言葉を引き、いう。老人でなくてはできない、立っているだけでいい役がある、と。至言である。
 このときわたしはすぐに、倉本脚本「北の国から」で大友柳太朗が演じた老人役を思い起こした。東映の看板スターの一人だった柳太朗(1912~85)最晩年の出演(83年)で、まさに大根役者に羞じない演技(立っているだけでいい)であった。
 1~3回まで、織本は娘が自分の醜態を含めて撮り続けるのを許す。なぜか? 娘にとってはそれが「謎」だった。だが3回の画面を観るかぎり、答えははっきりしている。「本番」のなくなった俳優が最後まで画面の前に立ち続ける、これだ。それがどんなに無様で(と思え・思われて)もだ。俳優織本の心意気である。
 ただし世阿弥に即していいたいことがある。柳太朗は「立っているだけで」よかった(もっとも、柳太朗のセリフも演技もよかったが)。だが織本の「演技」はやはりのこと「臭かった」。端的にいえば、若い時の演技の延長線上のもので、老いに独特の「花」がなく、わたしには「凡庸」に思えた。「おれは大根ではない」という臭気につながる。
 なお「花」論は、拙著『日本人の哲学 1』の世阿弥論で小西甚一の尻尾に乗、特段に詳しく述べた。
 2 拙新刊著『知的読解力 養成講座』(言視舎 200331)の見本刷りを入手した。現在(78歳)のわたしの「読解」力に絡ませた技術論である。
 わたしのごく親しい人も含めて、読み方・書き方等に関する「技術」論を忌避しているように思われる。あの谷沢先生でさえ、「技術」という言葉自体を嫌われた。それで「流儀」とか「芸」という言葉に置き換えられた。
 ところが先生が推奨してやまなかった小西甚一『日本文藝史』(講談社 全5巻)は真っ当な技術(芸)論であった。真っ当な山登り・探検の技術者(エキスパート)だった梅棹忠夫の全著作は、「技術」論である。アート=テクノロジイ論である。そうそう、吉本隆明もそうで、谷沢先生自身がそうだった。吉本がひばりの「唱」を見事に分析し、そのよって来る「芸」を語る筆法(文章芸)に唖然としたのはわたしばかりではないだろう。ひばりが「天才」として残る一筆だ。
 3 それに特筆大書したいが、世阿弥の芸術(能)論は、徹頭徹尾。芸能(術)論なのである。
 「芸」論で、これも最近偶然「しゃべれどもしゃべれども」(2007)を観て強く感じた。原作は読んでいない。ただこの映画(TV鑑賞)を「芸」(技術)論として観る(読む)と、とても面白い。
 とくに、今昔亭三つ葉=国分太一は別にして、十河五月=香里奈、村林優=森永悠希(子役)、外山春子=八千草薫(三つ葉の母)の落語「芸」はとてものこと興味深かった。技術論は、最初から最後まで「複製」術論であるほかないということだ。村林は枝雀の、十河は三つ葉の、春子も三つ葉の「複製」をめざすが、いちばん頼りないのが「複製」に及べない三つ葉である。
 「世の中に新しきものはなし」というのと「世の中は新奇さに満ちている」は表裏一体ということだ。「読解」の基本である。