◆151211 読書日々 484
日本は、経済一流、政治も一流
イザヤ・ペンダサン『日本人とユダヤ人』が政治天才としてとりあげた『日暮硯』は、恩田木工(もく)の「藩政改革」の事跡を記した小品で、岩波文庫で、60頁、原稿用紙で、60x31X11÷400=51枚である。1941年7月10日初刷りだから、戦前に出版されている。それで思い起こされるのは、拙著『寒がりやの竜馬』(言視舎 2015)で記したように、蝦夷開拓事業を計画、調査した田沼意次が、ちょうど木工と時を同じくして活躍しだしたことだ。
大石慎三郎『田沼意次の時代』(岩波書店 1991)を援用していえば、一八世紀半ば、九代将軍家重の時代である。いわゆる吉宗の「享保の改革」が「失敗」し、田沼政治がはじまるまでの「幕間」(混乱期)だ。同時期(1753年)、美濃郡上藩で大規模な一揆が起こり、足かけ五年、決着がつかず(百姓層の勝利)、ついに藩(金森)は改易処分になった。そればかりではない。この一揆を賄賂等で処理不能にした老中以下の幕閣が処分された。若年寄りの本多忠央は最も重く、相良一万五千国を没収されている。このとき家重の側用申次役だったのが田沼で、彼はこの事件の審理に関与し、本多の所領を受け継ぎ、幕政参画の地歩を築いたのだ。
ペンダサンが指摘するように、木工が家老の末席に列する信州真田=松代藩は、(他藩同様)財政困難に陥り、百姓一揆はもとより、足軽のストライキまで起こった。改易の危機で、猶予ならない事態である。このとき、16歳の藩主(幸豊)が恩田木工〔もく〕(三九歳)を抜擢し、財政再建を託した。(これは特に異例なことではない。)
『日暮硯』の特徴を、日本政治史研究の最良の材料(テキスト)としてとりあげたペンダサンは、要約する。
1.「非常に短く、少し日本語ができれば短期間に通読出来る」。
2.「ヨーロッパ式政治学の影響を受けていないから、……きてれつなレトリックがない」。
3.「松代藩という非常に狭い地区だけのことであるから、まるで試験管内の実験のように明白」だ。
4.「ひぐらしすずりに向ひて」〔徒然草〕一気に書き上げたもので、しかも筆者がいわゆる文人でないから、直截に理解出来る。
5.「財政立て直しの記録であるから、その方法、過程、成果がはっきり現れ、どこの国の人にも理解出来る」。
6.「ユダヤ人やヨーロッパ人には夢想もできないような行き方で、一見すべてが不合理・不公平でありながら、すべては『まるくおさまって』おり、あらゆる人がその『仁政』を謳歌している」。
実際、ヨーロッパの政治文献を読むと、戸惑うのはその奇天烈なレトリックである。箇条書きにして記せ、A4一枚に要約しろ、といいたくなる。
20代の頃レーニンの著作を読んで、感心したのは、主張がストレートかつ鮮明なことだった。(ただし、これはスターリンが自分の都合にあわせて書き換えさせた結果だった。)だが、相手(敵)の主張をねじ曲げ、打倒することをひたすらめざした「論理」(ロジック)である。
木工の「理外の理」といわれているものは、誰ひとり「打倒」の対象としない。すべて丸く収まるような「改革」だ。こんなことが可能なのか、といわれれば、不可能にちがいないと思える。実のところ、木工の改革は、中途半端に終わった(そうだ)。「半知御借」はなくならなかった。
ペンダサンがいいたいのは、日本人が政治無能とする評価を、一八〇度ひっくり返すような事例を歴史のなかから掘り起こすことだ。北条義時・泰時の「御成敗式目」であり、吉田茂の「講和条約」(対「全面講和」)と「安保条約」(対「非武装中立」)締結であり、池田の対話路線(所得倍増計画)であり、佐藤栄作の沖縄返還である。佐藤は、「米中ソを巧みにあやつり、なんと見事な政治的勝利よ! 一滴の血も流さず失われた国土を取り返すとは!」とペンダサンは溜息をつく。こうして、1970年、50歳、無名論客の登場がなった。「処女作にすべてがある。」とは、このペンダサン=山本七平にこそ与えられるべきだ、と思える。