読書日々 779

..◆160603 読書日々 779
伊能忠敬、四千万歩の男、を評定している
 寒が戻った、というほどではないが、かなり寒い。この「かなり」とか「多少」という副詞は、便利というか、あいまいな、幅の広い言葉だ。「可」なり、である。「多」とも、「少」とも、数量一般ともとれる。もっと便利なのに、大阪で使われる「ぼちぼち」がある。通常の会話では、「いい」状態のさまを表す。「儲かりまっか?」「ぼちぼち」というと、懐具合が「まんざらでない」状態のことだ。「少しはある」ではなく、「かなりある」「笑いが止まらないほどではないが、ある」ということだ。
 1 「天文方」のことを考えていた。大冊、保柳睦美編著『伊能忠敬の科学的業績』(古今書院 1974 改訂1980)を横にしながらだ。大判、横書き、8ポ(?)で、じつに読みづらい。伊能図の特色(1)は、「絵画的美しさ」だ。どんぴしゃりである。ため息が出るほどに美しい。「fine art)さながらだ。ほれぼれする。閥閣が、一見、賛嘆した理由だろいう。
 大坂に、麻田剛立(1734~99)という暦学者がいた。豊後杵築〔きつき〕藩侯の侍医だったが、40歳で年来の望みを実現するため、脱藩し、改名して大坂に住み、医業で身を立てながら、私学「先事館」を開き、天文暦学で名と実を挙げていった。当時、官暦が、実態と合わない。とくに、日食や月食の予測が外れる。改暦やむなしとなった。が、幕府天文方にタレントがいない。
 幕府はこの麻田に、改暦起用を打診する。だが麻田は、官途につくことを潔くせず、弟子の高橋至時(大坂奉行同心)と間重富(質屋)を推挙した。江戸にくだった二人は、2年で重責を果たし、若い高橋は天文方にとどまり、間は帰坂、質屋のまま、準天文方の役を許された。懐徳堂(大坂)や順天堂(佐倉)が官許(準官立)であったのとよく似ている。幕府も、時と事情によって、門閥を崩す挙に出ている。そうそう、極少録の勝海舟は海軍奉行に累進したし、海舟と犬猿の仲だった福沢諭吉や村田蔵六も、幕臣に取り立てられた。(なお樺太を実測したのは、「弟子」の間宮林蔵だ。)
 この江戸に上った高橋の門下に入ったのが、隠居し、佐原から江戸に上った伊能忠敬である。50歳、師より20歳年長で、実測で『大日本沿海輿地全図』を作製したハイ・タレントだ。
 2 普通、タレントというと、芸能人の意で、「芸人」と差別される。逆だろう。タレントとは、ハイタレントの持ち主、プロのことである。大学教授(プロフェサー)もタレントである(べきだ)。もちろん「芸人」も、「芸」(art)を売る(ことのできる)人で、タレントと変わらない。福沢諭吉を、軽蔑のつもりで「学商」といって、溜飲を下げる人がいる。「学」をビジネスにする(ことのできる)人のことだ。これほどの尊称はないだろう。そうそう、漱石も、「学者」は「学」をビジネスとする、「芸」をビジネスとする「芸者」の一種だ、という意味のことをいっている。宮本武蔵は、剣術(剣のアート)を売る、芸人であり、芸能人でもあった。
 3 伊能忠敬といえば、井上ひさしの大長編『四千万歩の男』(講談社 全3 1986 文庫版全5)が有名である。ただし、忠敬の一歩の歩幅値(「二歩で一間」=約一歩90センチ)が、間違っているそうで、感動がちょっと薄れる。もっとも「間・尺」は均一ではない。歴史上異なる。忠敬の歩幅は、今日でいう69センチだ。『四千万歩の男』の忠敬の歩幅は、「69センチ」と何の根拠も示さずに、流布されている。
 井上の小説が出るに及んで、忠敬は、「一生ふた山」説、「一生で二世を生きた」男として、引退後に目的を持って生きぬいた「幸福」な男の典型とされた。だがだ。
 忠敬は、養子に入り家督を継ぐと、妻、子ども等々親族が次から次になくなっていった。引退後も、さいごに残ったのは、絶縁したが戻ってきた娘だけであった。忠敬の弟子になり、「第二の人生」の犠牲になった二人の息子も含まれる。妻は、実質何人なくなったか。片手では数え切れない。それに、伊能家も、忠敬の死後、時代の波にのまれて、衰滅してしまう。
 4 伊能忠敬を「再興」させたのは、長岡半太郎(地球物理学=地学者)であった。その呼びかけで忠敬の本格的伝記、大谷亮吉編著『伊能忠敬』(岩波書店 1917)が生まれた。忠敬は「地理」から、二宮尊徳とともに、「終身」教科書のスターになる。
 これを軌道修正しようとしたのが、保柳で、同じ物理でも「地理学」専攻である。カニは自分の甲羅に合わせて穴を掘る。「机上」(理論)と「行動」(実測)のどちらに重点を置くかによって、忠敬の評価に差が生まれる。じつにおもしろい。