..◆161209 読書日々 807
諭吉は「学商」であった
1 12/7 約束通り中村さんとあう。5時、中村さんのほうが指定の店に先に到着していた。店はまだ客が少なく、広いカウンターでゆっくり話を聞いた。旧制の大学を最後に出て、阪大の宮本ゼミ(日本経済史)で学んだ中村さんである。宮本又次は、大阪経済史学の生みの親ともいうべき学者で、代表作は数々あるが、先々週記したように、大阪経済復興の立役者、わたしも熟読した、五代友厚伝の決定版とでもいうべき学術書(『五代友厚伝』 有斐閣 1981)がある。〈1907(明40)・3・1〜1991(平3)3・12 昭和期の歴史学者。大阪府生れ。京都帝大経済学部卒。彦根高商教授を経て45年(昭20)九州帝大教授、51年阪大教授。のち関西学院大、福山大教授。専攻は日本経済史、殊に近世商業史。88年文化功労者。著に『株仲間の研究』(58)、『小野組の研究』(70、学士院恩賜賞)、『日本近世問屋制の研究』(71)。〉(新潮社日本人名辞典)
2 『日本人の哲学』(全5)を書きあげたが、まだまだ落ち着かない。『福沢諭吉の事件簿』(全3)に取りかかろうとしている自分にあきれている。2部まで仕上がっている。まず書きあげた部分の再読からだろうが、すでに『交詢社百年史』(1981)を速読している。明治14年(1881)の政変が諭吉のターニングポイントであった。伊藤博文や井上馨からもののみごとに背負い投げを食らい、義塾の財政難と内部分岐、時事新報の「発刊」、朝鮮問題への深入り、等々を一挙に解決すべくあつらえた大舞台が、交詢社の創立だった。諭吉は難局に当たってつねに積極派であった。
交詢社は、『日本紳士録』(現在休刊)でよく知られたが、その名を「知識ヲ交換シ世務ヲ諮詢スル」からとった、1881年創立された、義塾関係者を中心とする、日本最初の財界・政界・学界の社交クラブである。新社屋が銀座にある(そびえる)。
わたしは1973~74年のオイルショックを経験している。結婚し、最初の子どもが生まれ、二子目が女房の腹の中にいる時だった。まだ無職(非常勤講師と家庭教師)だ。2年間で物価が2倍になる。定職をもつ人は昇給とボーナス増で被害は少なかったが、非常勤講師のペイはほとんど据え置きだった。超インフレ、これが定職のないものにとっては最悪である。1985年から日本経済はデフレ基調に入って、現在に至っている。退職者、無職者、パートターマーにとっての天国とはいわないが、地獄ではない状態が30年続いているのだ。
西南戦争が終わって、インフレ時代が到来する。私学の優、義塾は授業料の値上げで応じなければならない。しかし、それによって、退学者が増加し、入学者が激減する。教員の給与、校舎の修繕等の手当ができない。借金の算段が立たない。ついに、諭吉は義塾を文部省にまるごと「買い上げ」て貰う案を考えざるをえない瀬戸際まで追い込まれるのだ。そのとき義塾OBを中心に義塾存続資金の公募を中心メンバーが考え出し、即刻動いた。これにタイアップして、同窓会、義塾関連者、一般財界人へとわくを広めて、社交クラブへとステップアップしてゆく。
3 諭吉は「学商」といわれてきた。学問を商売の道具とするという非難語として使われる場合がある。諭吉はそれでいいのだ、と受けて立っている。あの夏目漱石だって、学者(東大講師)を辞めて、作家(朝日新聞嘱託)になる時、「新聞が商売なら、大学も商売だ」と応じている。自分をどう呼ぼうと勝手だが、「作家」と名乗りながら、作品をほとんど発表せず、作家をなのるだけの活動しかしていない人がほとんどだ。それでいいの、といいたくなるが、大学教授だから学者ではないのだ。「学商」とよべるほどの人は、サラリーを衣食住に費やすのに精一杯の人より、かなりましではないだろうか。漱石は、生前中に印税対象になった本の発行部数は、10万部程度(ただし印税率は高かった 総計25000円=現在8820万円 11年間の印税収入)で、大して懐を暖めていない。収入の過半は、朝日新聞(年棒2400円 教師のときの収入は非常勤も入れると1860円)から貰っている。それでも、年中ピーピーしていた。鏡子夫人の家計管理がダダ漏れであったことも一因だろうが。