読書日々 827

◆170428 読書日々 827
曾祖父の血族男子は、絶滅稀種!?
 昨27日、春雷。今年は、冬に、雷が少なかった。馬追山は、250メータほどの丘陵だが、風はゴーであり、かみなりはドスンだ。そうそう、土日には、恵庭自衛隊の演習(?)で、山にぶつかる音が激しく、その他、上空を通る航空機の爆音等、静かだからこそよけい響く。
 1 鮎川哲也、今週は短編集『時間の檻』6編、『わるい風』9編を読んだ。前者は江戸川乱歩が、後者は山前譲が解説を書いている。わたしのような、クリスティやドイルを読み(観)慣れて来たものには、鮎川のトリックが、難解すぎて、解けない。嘘と思う人は、時間つぶしに読んでご覧なさい。アリバイ(不在証明)を破る、時間と空間の罠を突破できるかどうか、お試しあれ。
 といっても、簡単に、一目で分かるようなトリックなど、トリックでも何でもないが。
 2 自著で一番思い出に残る本は何か、と聞かれたら、やはりというか、思い悩むことしばしばしでも、『イデオロギーの再認 文化の総体理論に向けて』(白水社 1985)をあげる。マルクスの哲学論『哲学の構想と現実 マルクスの場合』(白水社 1983)を書いて、ようやくマルクス哲学の可能性(不可能性)を明らかにしようとした、最初の書だ。道連れに選んだのが、アルチュセール(イデオロギーと科学)、プーランツァスとアルチュセール(国家の哲学)、ソシュール(言語論)、イリッチ(産業資本主義論)であった。アルチュセールの表現を借りれば、マルクス「理論」との哲学的切断をテーゼ化する試みで、今村仁司、田中正人、丸山圭三郎、山本哲士という水先案内人がいればこそ可能であだった。
 この本は、三重(伊賀神戸)から札幌(厚別)へ赴任する境目で書かれたので、時間=30~40代と空間=関西から北海道の、移動=切断でもあった。ただし、1990年、吉本隆明の総点検によって、マルクス主義の不可能性を論じきることができるまでは、まだ5年、あっといえばあっとだが、長い時間があった。
 3 『「超」倫理学講義』(言視舎)の校正ゲラが出てきた。札幌大学の倫理学の講義で論じた4回分をテープ起こしでまとめたものが生原で、教師が黒板を背に、講義するのなら、それを著書で示せなくては、おしゃべりの類いになるのじゃないのか、と思って書いたものだ。20代から、非常勤講師で倫理学を講義してきたが、40代になってようやく標準的(?)な教科書を書くことが出来るようになったと思えた最初の著が、『新倫理学講義』(三一書房 1994)で、すでに50代に突入していた。
 といっても、このころがわたしのいちばん生動的なときではなかったろうか。よくバブルの鷲田といわれたが、生やさしいものではなかった。なによりも仕事が出来るのが楽しかった。エッ、バブルなんて、という人がいるかも知れない。安いスナックで飲んではいたし、騒いでいたが、それは泡のほんの一部で、泡の中で硬い石けんで、床を擦る毎日だった。ちょうど上手い具合にパソコンがわたしにも使えるようになって、書斎もそれように改造し、量産体制(?)に応じることが出来るようになった。
 4 今年、わたしの家は年忌年とでもいうべき年だ。曾祖父が77回忌(年忌は50回で終わるそうだが、坊主に心中だてする必要はない)、祖父が50回忌、父が33回忌、母が13回忌、それに義父が50回忌だ。小さな年忌記を出すことにした。曾祖父が出た村は、福井の坂井郡鶉村黒丸で、2度ほど行ったが、妻と娘とで訪れた2度目は、間違って、たどり着けなかった。黒丸には、曾祖父が出た鷲田の血族はもういない(そうだ)。大阪の高槻、愛知(?)、それに厚別と豊平に、合計、10人ていどの鷲田(男子)が残っているが、女系家族とでもいうのか、おそらくわたしの息子の世代には、絶滅稀種に入るのではなかろうか。否、すでに入っているか?