読書日々 842

◆170811 読書日々 842
「獲物」ばかりを追い続けると、止まらなくなり、溶けてしまうよ
 「山の日」だそうだ。知らなかった。昨16年からはじまったのだから、わたしが知らなくて、当然か。真夏なのに、梅雨空のような日が続く。乾燥肌のわたしにとっては、つらくはないが、お盆だ。パッとしない。低気圧が、日本海と太平洋に居座って、ときどき日本列島上で、急激な移動をくり返している。毎日のように、1時間で100ミリ等という集中豪雨のありさまがTV画面に映し出される。
 1 昨日、老妻が、草刈り機で庭の全面にはこびった背の高い草をなぎ倒した。今年はことのほか笹や葭が元気だ。30年余前に越してきたとき、一面が足の踏み入れ場もないほど笹が密集していた。それとは違うが、凄い勢いで笹が広がってきているように見える。
 笹は、処理がやっかいだが、土壌の栄養分を保養する強力な絨毯だ。その勢いがなくなって30年、優しい草草の庭になった。この地を引き払おうかという段になって、また生命力を盛り返しつつあるのか。そうではないように思える。笹や葭の周期的な最盛期に出会っているのではないだろうか?
 2 年を喰ってもっともつらいのは、仕事上でいえば、叙述や論究がくどくなることだ。突き抜けるような軽快さに乏しくなる。清冽さはとうになくなったのは承知しているが、忘れっぽくなるから、なおのことあれもこれも気にしがちになる。金属疲労、老害、……いろんな言葉が当てはまる。重厚ではなく、鈍重になっていく。こういうと、反省ではなく、繰り言になる。
 3 恒例のように、夕張のメロン農家、神野さんがメロンを届けてくれた。もう20年近くなるのではないだろうか。今年はよく実ったようだ。秋には、ゼミ生のお母さん、青森の溝江さんからリンゴが届く。有り難いことこの上ないが、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。それに三重(津)の井早(元短大の司書)さんから素麺の絶品が送られてくる。酒はいろんな人から贈られてくる。
 はたしてわたしがこの贈り物にふさわしいお返しをしているのかというと、はなはだ心もとない。お返しは、妻の役目だ、などと通り越してきたからだ。
 4 鮎川哲也の落ち穂拾いを続けている。『クイーン氏の色紙』(1987)は、「文庫オリジナル」と銘打たれた5連作の推理小説集だが、ちょっと毛色が変わっている。「粋」を装っているからだ。エラリ・クイーン「調」というか、クリスティのパーカー・パイン(探偵)ものに連なる「洒脱」さがみられる。ま、「板」についていないが、わたしは好きだ。
 もう1冊、机の上には『悪魔博士』(1988)がある。少年向け推理小説で、1960年を挟んで、『中学時代』等に発表された、「幻の作品群」の文庫版だ。鮎川の代表作が書かれた苦闘時代の、サイドワーク的作品と見なされている。だから楽しみでもある。
 そろそろ、一度、鮎川作品と離れて、あるいは、離れるためにも、エラリ・クイーンの作品とつきあおうかなと考えている。
 5 ただし、今やっている仕事を今月中には、仕上げなくてはならない。それは出版社との約束である。今週中に200枚に達したいが、集中して励むと、かえって枚数が稼げない、というパラドックに襲われる常態が続いている。
 6 あいかわらず、日本の現状を、評論家の多くは外見上は悲観的に、あるいはマスコミはどうでもいい「ほころび」をおもしろおかしく、報じ続けている。「批判的」なのは、大いに結構。だが、日本の現状は、EU・英・米や、中露印などより、大枠で、ずっと穏やかに推移しているのだ。これを忘れると、目眩が止まらなくなる。足元が見えなくなり、極端な否定例を見つけては、それをよってたかって叩く、という寸法になる。そのうち、溶けてしまったりなんかして。