読書日々 851

◆171013 読書日々 851
「朱夏」はすぎたが、「玄冬」か?
 業者による引っ越しは、来週だが、居室を移して2ヶ月になる。ほとんど厚別だ。ま、生まれた土地内とはいえ、浦島太郎の類いか? でも住み心地はまんざらでもない。それに、今年はよくよく仕事が来た。
 1 面白いのでは、二松學舍の江藤茂博さんの注文で「文学部とは何か?」(20枚)を書いたことと、『季報唯物論研究』(141号)に注文で、「ロシア革命100周年:われわれは何を学んだのか?」(7枚)と、大学以来の畏友、笹田利光君の追悼文(6枚)を書いたことだ。掲載書も掲載誌もまだできあがっていないが、1983年、「マルクス没後100年」で、マルクスとマルクス主義をはじめとして書きまくった(この当時、「月刊わしだこやた」といわれていたそうだ。もちろん蔑称だ。)のとは違った意味で、落ち穂拾いの季節(晩節)がやってきた、ということが実感させられる。
 「文学部」とは実に日本特有の言葉で、その実体は何か、という問いは、拙著『日本人の哲学』の隠れたテーマであった。いま開かれている安藤忠雄展で注目すべきは、安藤がエンジニアであるだけでなく、作家=文学者だ、ということだ。同じ意味で、南部陽一郎(素粒子論、「対称性の自発的な破れ」)も物理学者であるとともに、じつに巧みな作家=文人だ。わたしのようなものにも、わかった気持ちにさせてくれる。安藤や南部が一番好ましいのは、「はったり」(ブラフ)がないことだ。
 2 「純哲」や「純文学」がある。「本格ミステリ」がある。通俗そのままの作品やエッセイを書き続けているのに、小さな賞を3つもらった故なのか、「純文学」をこととしていると称し、直木賞などを受けた作家を軽蔑すること甚だしい男(作家)を知っている。大西巨人は「俗情」を嫌ったが、野間宏や伊東光晴の作品を批判対象にしてだ。
 私は通俗で凡俗を否定しない。私自身が凡俗圏内の人間として生きてきた。自分の生まれ育ちを否定できる人間がいるとしたら、尊大無自覚者にちがいない。生まれの必然(自然)を否定できるわけがない。受けとめるしかないのだ。社会派松本清張のテーマだ。
 3 鮎川哲也のミステリを読んでいて、つねに「本格もの」に引っかかる。鮎川は「本格の鬼」と他称ないし自称している。「本格」とは、ミステリの「祖」といわれるポー( Poe, Edgar Allan 1809-49)にならいて(複製)ということであるらしい。でも、私の知るポーは、「大鴉」(詩人)であり、「アッシャー家の崩壊」「黒猫」(恐怖小説)であり、「モルグ街の殺人」(ミステリ)、「黄金虫」(暗号小説)などの短編作家である。「本格」に詩人は少なく、暗号も、恐怖も、アリバイ崩しも、密室も、さまざまなものが登場する。乱歩から異常と欲情を除いたら、何が残るのか? 鮎川の面白さは、乱歩の異常と欲情を否定するものではけっしてない。二人とも、ポーを含めて3人とも、人間の異常を、人間の欲情=本性と認めるところにある。つまり、人間はそんなに上等な生き物じゃないということにきわまる。鮎川作品の面白さは、アリバイの設定とアリバイ崩しの妙味が、言語でしか表現できない場面へ私たちを連れてってくれるからに違いない。
 4 TVで、「朱夏」の再放送を見た。画面では、ポアロでなくとも、はじめから、犯人が推定できた。でも今野敏の作品は、主役のよしあしにかかわらず、面白い。ただし出演者は、もう少し坦々と演じればいいのに、オーバーすぎる。かれらの日常生活のオーバーアクションの自生的反映なのか? 「青春」の未完の季節のあとに、燃え立つ「朱夏」の季節が来るという筋立てで、「中年」などとあいまいな色でたとえられる年代を、「朱夏」とまともに呼ぶだけで、40~60代の元気が伝わってくる。『40代からはじめる最強の勉強法』という本を書いた。わたしのリアル(本格)コースでもある。青→朱→白→黒。