読書日々 874

◆180323 読書日々 874
新しい知に出会う。こんな愉悦はない。「邪馬台国」の「全解決」だ(!?)
 鬼才の書に出会った。孫栄健(1946~)『決定版 邪馬台国の全解決』だ。著者はすでに、『邪馬台国の全解決』(六興出版 1982)と『魏志東夷伝の一構想』(大和書房 1986)を書いている。この事実をまったく知らなかった。知的怠慢の誹りを免れえない。歴史小僧の故か?
 そうじゃない。哲学(愛知)の本領は「読解」(法)にある。それ故、構造主義、特にルイ・アルチュセール(『資本論を読む』)、広松渉(マルクス読解)、吉本隆明、丸山圭三郎(ソシュールを読む)等に深く影響を受けてきた。歴史畑では、文献を「読む」(マナー)を重視した内藤湖南、宮崎市定、古田武彦、岡田英弘等を愛読してきた。その中に孫の著作が欠落していたからだ。
1 本書を一読してまず、古田『「邪馬台国」はなかった』(1971)以来の衝撃を受けたことを記さなければならない。古田は、魏志(=三国志)倭人伝には「邪馬壱(壹)」、「後漢書」東夷伝ほかには「邪馬台(臺)」と表記あるが、勝手(検証なし)に、「壱」を「台」の誤記とみなし、「邪馬台国」と改訂する通弊(テキスト読解の初歩的誤り)を指摘し、「『邪馬壹国』でなければならないか」の理由を縷々記した。
2 (以下は孫の論理=読解だ。)
 1. 王朝史は後漢→魏→晋の順だ。だが史書は①魏志(三国志)→②後漢書→③晋書の順で完成し、しかも①は三国=魏・蜀・呉志を一書に編纂した、同時代史である。
 2. 陳寿(①の編著者)は官史だ。魏朝(帝)から「禅譲」された晋朝の事実上の祖、司馬懿〔い〕を直截に批判できない(「忖度」が必要だ)。つまり「春秋の筆法」で書き記さなけれはならない。では「春秋の筆法」とは何か。
 〔春秋〕とは孔子の書(とされる)『春秋』(魯国の年代記)で用いた歴史記述法(レトリック)で、その原理は、《春秋は文を錯〔たが〕うるを以て義を見〔しめ〕し、一字を以て褒貶を為す。》だ。中国史伝統の書法で、平たくいえば、時に応じて、本音と建て前を使い分ける工夫だ。(例えば、孫が明示するように、「至」と「到」は、ともに「到着」だが、「至る」は途中地に到着、「到る」は最終目的地に到着という使い分ける。したがって魏の使節団は、卑弥呼のいる奴国ではなく、「一大率」が「常治」する伊都国に最終到着したということになる。つまり卑弥呼にあっていない)
 3. 特に東夷伝の韓伝・倭人伝は、魏(第一の実力者)司馬懿の東方攻略の「史実」を反映している。編著者陳寿は、韓・倭二国(の地理・風俗・政治状況)を春秋の筆法で書かざるをえない。(司馬氏の経営に「失策」があった場合はなおさらだ。)
3 ②後漢書と③晋書は、魏志の「史実」を受け継ぐ。同時に、史実を春秋の筆法で改釈・叙述する。この経緯の孫の開明・叙述(読解)は読んでいて目が覚める思いだ。新解釈の中心をあげれば、
 1. 行程は、12000余里(1里=魏・晋里=2.3km)+「水行10日陸行1月」ではない。ともに帯方郡からの行程距離であり、行程日数である。全行程は12000里、水行・陸行で40日を要する。
 2. ただし、地理情報は軍事機密で、特に呉がしきりに東方計略を図っている時期に当たり、「露府」(戦時広報〔大本営発表〕)は実数の10倍で、12000余里は、1200余里(520km)だ。
 3. では12000余里に当たる国はどこか。倭人伝の記述が示すところ、奴国、卑弥呼が座すところだ。
4 倭人伝の孫読解が指し示すところ、12000余里の出点が帯方郡(ソウル近接)で、最終着点が「奴国」である。これは(わたしには)驚天動地の読みだ。
 1. えっ「邪馬台国」が最終着点ではないのか。後漢書(ハンヨウ編著)は奴国を倭国の「極南」と書く(注釈する)。卑弥呼は奴国王でもある。金印(漢倭奴国王)をもらって当然だというわけだ。
 2. 伊都国に「一大率」(政・外・軍の総理=男弟=王)を置き、彼が30余国を「検察」し、諸国はこれを「畏憚」する、とある。卑弥呼(女帝=シャーマン)に対応する。
 3. 伊都国から、東4km余に不弥国、東南4km余に奴国(邪馬台国の極南)があり、そして卑弥呼の座する所在地(聖域=宮殿)と墓所を、著者孫は明らかにする。ただしこの結論は、考古学上、驚天動地ではない。
5 つまるところ、邪馬台国とは、女王卑弥呼(奴国)を盟主とする30余国が集まる戸数7000の連合体(集落)だ。
 1. 孫は断じる。よくいわれるように、魏志は倭国派遣者(がまた聞きした類)のいい加減な報告をもとに、倭人伝を記したのではない。中国は「記録」(文字)の国だ。リアルな実地見聞をもとに記している。ただし、卑弥呼が死んで、争乱が起こり、また女子を立てて平和を回復した、と記すが、どうだろう。
 2. 実際は、実権を握る「一大率」が卑弥呼を(暗)殺(?)したがために、争乱し、ふたたび女王を立てざるをえなくなった。この「一大率」の背後にあって糸を引いたのは司馬氏である。その東方政略が失敗に終わった。これを『魏志』に直叙はできない。春秋の筆法が必要になる。
 3. では権力を簒奪した「一大率」とは誰か。魏に朝貢使となり、245年には魏皇帝から「詔書」等をうけたナズメ(難升米)で、伊都国王=「一大率」=男弟だ、と孫は推論する。(最近ミステリのはまっている。納得!)
6 最後に一つだけ注文。魏志倭人伝に「邪馬壹国」とある。孫の言を借りても、誤記・誤植の類ではあり得ない。後漢書以下の史書での「訂正」(邪馬台国)とはいかなる「筆法」か? 教授願いたい。