読書日々 924

◆190308 読書日々 924
飯田長姫高校の小さな大投手
 1 厚別に戻って二年間、主として手元に置いて読んできたのは、鮎川哲也のミステリと宮脇俊三の時刻表片手の鉄道記である。今朝も宮脇『時刻表昭和史』(角川選書 1980)を、あまりきれいな話しではないが、トイレで再読し終わった。
 昨年は巡礼友の会ラストで、新宿から仙台まで、鈍行の旅をすることができた。真夏の炎天下で、何度もクラクラしたが、電車を乗り換える度に元気が出たように感じられた。
 今年は、暖かくなったら、豊橋から辰野までの飯田線に乗ってみたい。できれば中央本線で新宿まで乗り継ぐことができたら、幸せ一杯だ。伊賀神戸時代(1975~83)、早朝に伊賀神戸を発って、薄闇のなかを新宿にたどり着くコースを何度か経験した。ただひたすら新大久保やゴールデン街で飲むためだけにだ。愚行ではあったが、しびれるような解放感を求めていた。
 いつも全線鈍行で、名古屋からの直通があった。ただし甲府を過ぎ塩山あたりから「準急」に変わる。塩山あたりは清張『砂の器』に登場する重要場面だ。といっても、中央本線を新宿から名古屋に向かって乗ったことはない。
 飯田線は200キロ弱の長さで、全線電化が早かった。元私鉄だったからだ。この線半、分近く山峡を走る。2017年、飛騨峡谷を富山まで特急に乗ったときの霧のなかを走り抜けた感触が忘れえない。なお飯田線は、鉄道ミステリの舞台に何度もなっている(鮎川作品にも登場する)。それに意外と中央本線(木曽谷に平行)と近い。
 飯田市は人口10万、沿線唯一の中核都市だ。柳田国男の養(本)家がある。拙著『柳田国男 柳田民俗学と日本資本主義』(三一書房 1999)で、大審院判事の養父・養家(素封家)との複雑な関係に少し触れた。若いときの柳田と三木清の対照的な「読書」歴は注目に値する。ともに播州出身だ。
 わたしの関係で、飯田は札幌大学で同僚だった代田郁保(経営学)さんの出身地で、彼はずいぶん飯田に入れ込んでいたように思う。のちに作新学院大学(栃木)に転勤され、一度、講演者に招いてくれたことがある。栃木市の実業家を集めた会であった。会の途中で栃木銀行が破産するというアクシデントが生じた。その代田さん、夭折された。
 2 祖父(彌太郎)の弟(彌作)が豊平で農耕と養豚をやっていた。夏冬の休みに、よく訪れたが、36号線が舗装・開通すると、豊平でいち早くマーケットを開き、成功者の一人になった。
 その豊平といえば阿部仁太郎さんを思い出す。豊平郵便局の開設者で、厚別に移って牧場や郵便局を開いた有力者の一人だった。馬場(牧場)さんや田口(郵便局)さんはたしか阿部家の支配人だったように記憶しているが、わたしの生れる前のことで、あるいは間違っているかもしれない。
 厚別の金持ち・資産家といえば、まず阿部さんだった。息子さんも仁太郎で、派手な人だったような記憶が残っている。
 私の父(金彌)の不満の一つは、名前が、岩崎にちなんで、彌太郎→小彌太でなかったことだった。察するに、父が生れたとき、彌左衞門→彌太郎(→金彌)で、岩崎家の名字を模すほど、たとえ田舎の見栄っぱりだとはいっても、「成功者」の仲間入りを果たしていなかったことによる。
 金彌とはたしかに「耳」には軽い響きがする。しかし「金」は最上の美字で、「金彌」は「成功者になれ」で、けっして軽くない名字だ。それに岩崎小彌太(四代目)は彌太郎の実子ではない(二代目弟彌之助の子)。
 だから彌太郎は(曽祖父)彌左衞門(の長男=太郎)からとったのであって、わたしが生れるころ、実家は最高潮で、それで当時の岩崎家の当主小彌太から名字を借りたということになった(のだろう)。