◆190322 読書日々 926
エッセイとは何ものか?
長い冬もようやく終わりを告げそうだ。雪はマンションの駐車場から姿を消した。いつもなら長沼の自宅の土手でふきのとうをつまみ、天ぷらにしてもらうのだったが、今年は妻が遠征し、和え物となって夜の食卓を飾った(?)。春の香りというところだ。
1 平成30年の終わりを迎えつつある。
平成元年、わたしごとでいうと、天皇崩御に際して書いた、北海道新聞(夕)掲載の「昭和史と天皇」ではじまった。それから今日まで長中短、じつにバライティに富んだ作品を書く機会に恵まれた。『天皇論』からはじまり『大コラム 平成思潮』(本編 後半戦)にいたる書物群で、いまから振り返ればどこにそんなエネルギーがあったのかな、と思えるほど書きに書いた記憶が鮮明に蘇る。ほとんどがいわゆる「雑文」である。
ところでその「雑文」だが、愛用の『新明解国語事典(デジタル版)』に「〔論文や小説などと違って〕 気楽に書き流した文章。」とある。辞典の語釈として間違っていないが、「エッセイ」である。
このエッセイが、だが、難敵なのだ。
モンテーニュ(Montaigne 1533~92)に『随想録』(Essais)がある。ルネッサン期(近代の入り口)に書かれたもので、体裁はいわゆる「日録」風だが、モンテーニュは生涯この一冊の書物を書くために日を次ぎ年を閲したたといっていい大冊。まさに思想・文学・人生録の宝庫である。
またイギリス経験論哲学の祖ロック(Locke 1632~1704)に『人間悟性論』(An Essay Concerning Human Understanding)がある。エッセイとあるが、大槻春彦訳で全4巻(岩波文庫)で、もちろん気軽に書けるような代物ではないし、「雑文」ですますことはできない。
2 では「雑文」とは何か。わたしは『新・学問のすすめ』(マガジンハウス 1997)「9 書く技術」で、専門書に対して「雑書」を読め、と書いた。
〈●古書は雑書なり
ビジネス書とは、本質的には、専門書ではなく、雑書である。しかも、ビジネスに直接関係する本(税務とか商取引とか組織術というような内容)に限ってはいない。広く、ビジネスマン・ウーマンが読む本のことである。つまり、万人が読む本だ。
雑書は多士済々である。ほとんどは、紙屑同然だと考えていい。しかし、少し長い目で見れば、益書が屑書を駆逐する。益書か屑書かのいちばんいい区別の目安は、古本屋の棚に入ったら、すぐに売れるかどうか、である。
古書(こしょ)と古本(ふるほん)は異なる、といわれる。古書は、いまだに流通している書物のことをいうのだそうだ。その意味では、益本雑書とは古書のことだ、という事だろうが、そんなに気取る必要はない、というのが私の意見だ。
雑書を読む強みは、なんといっても、専門書を読む足しになる。あるいは、専門書を読む意味が雑書を読まなければ分からないということだ。専門バカというが、バカになるほど専門に徹することは、人間、なかなかできないものだ。雑学という広いバックボーンというささえがあれば、人は安んじて、狭い坑道を掘ってゆくことも厭わないのである。
雑書読みの蓄積があるかないかで、その人の知識や技術の幅や厚みをはかることができる。シャープな意見に出会っても、もう一つ説得力に欠ける思いがするとしたら、その著者あるいは発言者に雑書読みの習慣がない、と見ていいだろう。〉
この本、いま読んでも(だほうが)新鮮(?)だ。モンテーニュではないが、「雑学」を専門にするくらいなればベストはないか、といっている。
2 あいかわらずトイレ本に宮崎俊三を選んでいる。今週は『汽車旅行12カ月』(潮出版 1979)で、圧巻は「サロベツ原野」(7月)や「北海道六日の旅」(10月)である。そうそう、テレ東(3/21)で、柳家小三治密着ドキュメントがあった。本筋は、北海道旅行である。小三治、40代はバイクで毎年北海道を仲間と北の最果てまでツアーしていた。「おまえの噺は面白くねえ。」小さんがいったそうだ。いつも談志と並べて論じられる。もちろん、小三治のほうが、わたしは好きだ。