読書日々 1009

◆291023 読書日々 1009 Jネットたかた
 強風で豪雨もあるか、という天気予報。マンションの中には、何にも昨日と変わらない。困ったものだ。わたしもだが、狼少年になってひさしい天気予報もだ。
 1 先日、長沼町の旧宅に久しぶりで赴いた。妻の車に便乗してだが、先ず、北広との分岐点のガソリンスタンドによって、満タンにし、マオイの野菜市場に向かった。周辺は、千歳から石狩港へ直行(予定)の産業道路が、長沼まで開通したので、様子が一変した。ただし長沼の家々は、まったく変貌の跡を止めていない(ように思える)。
 妻は、夏の間、ときどき旧宅を訪れ、草刈りに追われていた。表側は本当に美しくなっていた。わたしは旧書庫に入り、必要な本を二冊掘り出し、小型書棚を抱え、もうそれだけでぼーっとする体たらくである。
 それにしても穏やかな気候で、まぶしいほどに晴れている。絶好の行楽日である。
 2 雪嶺論の根幹部分を終え、あとはエッセイでも書くつもりで進めればいいのだが、どうもそうはいきかねるかな。
 明治期は、人物論の花盛りであった。雪嶺もそんななかの一人である。実に丹念に、人物論を記し、点鬼簿を丹念につけている。
 明治維新の三傑と云えば、西郷・大久保・桂だが、雪嶺は四傑の一人に高杉晋作を加えている。伊藤も山県も、高杉の進出がなければ、存在しなかった、といっていい。だが、長州が桂だけになったのは、広沢真臣が明治4年に暗殺されたからであり、伊藤博文・井上馨がともに薩摩の大久保の麾下で力を得た理由になった。
 谷沢著『読書人の立場』(1997)は、雪嶺の人物論が司馬遼太郎の人物評価に大きな影響を与えた、と記す。しかし、事は人物論だけにあらず。西南戦争、日清日露戦争記にも大きな(決定的な)影響を与えている、と断じてもいい。
 3 雪嶺が敗戦に際し、軍が謬り、軍に官閥も財閥も騙され、そのとばっちりを国民も受けた、ふうの発言をしている。この言説行程はよくよく知っていたが、改めて読んで、
 むざんやな 兜の下の きりぎりす
を思い起こした。おくのほそ道における芭蕉の句である。
 木曽義仲と源頼朝の関係は複雑だ。義仲の父義賢は頼朝の父義朝と対立、義賢が義平(義朝の長子で頼朝の兄)によって殺された。頼朝・義経は仇の子なのだ。
 その義仲を助け(抱え)、木曽へと脱するのを助けたのが、齋藤実盛。その実盛、こんどは平家側として、義仲と戦わざるをえなくなり、兜首を曝すことになった。この古歴を踏まえて、義仲好きの芭蕉が加賀の小松は多太(ただ)神社で詠んだ句に、「あなむざん 兜の下の きりぎりす」がある。
 4 トイレ本、宮脇俊三『平安鎌倉史紀行』は、遅々として進まないようだが、もう少しを残すだけになった。
 宮崎さんは、蒙古襲来の古地古跡を巡っている。便乗するわけではないが、まえまえから乗ってみたい路線がある。松浦鉄道=有田~佐世保間(84km)、唐津線=久保田~西唐津(42km)、筑肥線=蛭浜~唐津、山本~伊万里(68km)、すなわち西北九州をめぐるローカル(赤字)線だ。あわせると200kmになる。一日では走破できないかも。でも福岡まで空路、それからちんたらちんたら、である。伊万里も佐世保も、そして、松浦も訪れる、と断言しておく。
 佐世保は、戦前、軍港であっが、いまは「ジャパネットたかた」の本拠地で、(おそらく)1兆円企業を目指している。IT時代の本格化によって、泥臭い宣伝と洗練された流通網の形成で、実現可能な数字ではないだろうか。(なんて、わたしがいったからといって、何の証明にもならないし、わたしもJたかたを利用していないが。)