読書日々 1015

◆201204 読書日々 1015 「一枚の写真」
 昨日、ヨレヨレの脚で、ひさしぶりに近くを一周してきた。
 わたしの住む厚別は、札幌市に編入された後も、1960年以前は、おおよそ旧寒村そのままであった。わたしが高校を出て上阪する時期だ。ところが今現在、すでに人口減少化がはじまったとはいえ、まわりはマンションやアパートだらけで、うろ覚えの場所さえほとんどない。もっとも、土地形、特に道の傾斜はかすかに残っている。
 といってもこの変化は地方の町村にかぎらない。大阪の上本町の親類の家(40年昔になくなった)の周辺は、空堀商店街周辺をのぞいって、まったくその面影を留めていない。
 12月に入った。寒さは一段と厳しくなったが、長沼の馬追にいるときと比べると、雲泥の差といっていい。なによりも寝室が暖かい。朝起きが楽だ。外出に足が遠のくわけだ。
 1 もはや「読書日記」でもあるまいと思う。なにせ、読むのは、1週間に1冊程度がせいぜいである。それでもいまさらやめるわけにもいかない、と思える。「読む」とは深いというか広い意味をもっている言葉なのだ。
 何度も書いたが、ホッブズは『リバイアサン』で、「読む」とは「世界を読む」意で、もちろんその「世界」には、森羅万象から魑魅魍魎に至るまで含まれている。「世界」を読むで、とりわけ重要なのは、「書」を通じて、「世界」(未知や既知)の世界を読解=味読することだと述べる。たんなる自分の狭い体験世界を超える領域にまで歩を進めるだけでなく、自分が経験した世界をもういちど吟味にかける必要(必然)のために、読書は必要であるというのだ。
 2 わたしは、80歳を直前にして、心にかかるのが、「自分を読み直す」ということだ。事情はある。
 わたしだけではないだろう。過去の事はかなり鮮明に覚えている、思い出すというのに反比例して、つい昨日のこと、否、数分前のことも失念してしまう。これが老化の一般現象ではあるまいか。
 それで「読書」ということにかんして、2つのことをこれから心がけて行きたい。
 1 過去の自分=写真に残された自分をネタに、「事柄」を思い起こす、正しくいえば「読む」という工夫だ。
 2 わたしの「書いたもの」(著書を中心)をネタに、「事柄」を思い起こす=読み直す、という工夫だ。
 もちろん、読書録はこれからも続ける。新刊は稀になったが、旧刊(?)は日々手にしている。もっと重要なのは、まだ書くことを止めていない。のろくなったが、なまなかのものだ(と思える)。
 雪嶺論は、大団円(?)に近づいている。ま、通常はここからが手間暇を食うのだが。
 それに読みたい新刊本は、チェックを忘れていない。
 3 「一枚の写真」(1)
 わたしの記憶に残っている(わたしが写っている)もっとも古い写真は、(おそらく)昭和17年5月5日の日付がある、端午の節句の記念に撮った写真だ。ちなみにわたしは、昭和17年3月13日生れだ。
 日米開戦の翌年で、日本が戦勝に次ぐ戦勝の絶頂期で、シンガポールに次いでマニラが陥落した時に当たる。(直後、アッツ島の日本守備隊全滅。戦況は暗転をはじめる。)
 この写真は、中心にいる数えで1歳のわたしを祝う写真で、察するに、実家の最盛期にあたっていたといっていい。もちろん、母に抱かれ、衣に包まった写真のわたしは、日本(戦況)のことも我が家(家運)のことの一欠片も、知るはずもなかった。だが、実にいい顔をしている。そう記憶に強く残っている。
 ところが、何度か眼にしたことのあるこの写真、日付は残っているが、父母の写真帳から抜きとられているのだ。わたしには姉二人がいる。妹二人は、まだ生存していない。何処に行ったのだろう。