読書日々 1016

◆201211 読書日々 1016 開高、ハリバットを釣る
 終日部屋の中だ。ときに、戸外に出る。といっても、敷地内の駐車場スペースのところまでで、冷たい空気を吸いにゆくだけだ。それでも、いい断裂になる。最低でも、時間が切断される。間が空くということにはなる。昨今寒いから、無理にも屏にもたれて背伸びをするだけで気分が晴れる。
 1 ひさしぶりに開高健の釣り紀行を見た。何回目になるか、開高の釣り紀行シリーズは何度も繰り返し見てきた。開高の著作も、再読して来た。一人の作家に、若い時から執着に執着を重ねた経験は、開高とともに、その畏友とでもいうべき谷沢永一をおいてほかにない。二人はわたしの一世代前に当たる。あ、もう一人、司馬さんを忘れてはならないだろう。いや吉本隆明を失念したら、すみませんでは済むまい。(ただし現在刊行中の晶文社版吉本全集は予約購入していない。)
 今回の放送は釣りシリーズの新・再生版というべきものだが、「オーパ! アマゾン釣り紀行」を初めとした旧シリーズは、TV釣り番組の「定番」を創ったといっていい。
 旅行記(集英社他)の方は高橋舜の写真が素晴らしく、今回の再放送シリーズの第1回では、アラスカの孤島で巨大ハリバット(オヒョウ)釣りを再生した新番組というべきもので、釣り紀行に同伴した料理人の目から見た釣り紀行というべきだろう。
 最初の釣り紀行『オーパ!』(1978)を、伊賀上野の小学校に入ったばかりの長男が、書庫のドアをノックして、「読んでいいですか」と断って、持ち出していった記憶が今も残っている。親の目には、子どもの成長は突然やってくる。
 開高には食紀行文というべき本が何冊もある。みんな面白い。『夏の闇』は開高の最高傑作というべき作品だが、ドイツで、食と女(性交)と眠とを三題噺に、最後はフィッシュオンで締めくくる破天荒な作品だ。豊饒な語彙を駆使する開高作品が、英訳されるとヘミングウェイ(『老人と海』)になるという明察を佐伯彰一が指摘している。TVの楽しみが増えた。(ま、開高は食通というより、大食漢というべきだろう。)コロナ禍を理由(?)に番組が「朝顔」を除いて、素寒貧になっている。
 2 トイレ本に、ときどき漱石全集の一冊を手にする。切れ切れに拾い読みするのだ。だがこの岩波の全集、立派すぎて、手に重く、よほど気をつけないと、トイレの床に落として、美本を台無しにしてしまいそう。くわばらくわばら。といっても、家族や門人、そして友人の言葉を、鵜呑みには出来ない。特に漱石の場合がそうだ。わたしもヒステリーでは人後に落ちない。だが漱石のと比べると、可愛いものだ。何程もないように思える。もし漱石に相応以上の収入がなかったのなら、もう少しヒステリーも穏やかかつ緩慢だっただったかも知れない。いや、逆かな。なにせ50になる前になくなったのだ。奥さんが、先ず、ほっとというか、やれやれと思っただろう。
 3 「1枚の写真」(2)
 わたしの父母家族の写真は少ない。戦前のは2枚あるだけだ。その1枚が、父のアルバムから抜かれた、わたしが誕生直後の記念写真だ。家長が祖父で、鷲田の家の最盛期(最後)の写真だったに違いない。
 もう1枚が、昭和20年3月20日とペンで父が日付を記している、
 父母と長女(早智子 8歳)と二女(典子 6歳)とわたし(4歳)、母の膝に抱きかかえられて座る三女(敦子 2歳)である。わたしは姉2人、妹2人の5人きょうだいだが、四女(優子)はまだ生れていなかった。
 この写真は、敗戦前のもので、父(国防服)も母(和服)も軍事色の強い服装で、姉2人もわたしも毛糸のセーターに吊りズボンといういでたちだ。一見、素寒貧だ。ただし「写真屋」による記念写真で、敗戦後は(贅沢厳禁の普通の家はもとより)我が家からも消えた風景だった。
 それにしても、服装はくすんでいるが、父母、それに姉わたし妹の体も顔もまるまるである。
 写真の背景の特徴は、畳の応接間に絨毯を敷き、背後の襖に(出征記念?の)国旗が張られている。